『稲村ジェーン』プロデューサー森重晃が明かす制作秘話と“映画監督・桑田佳祐”

『稲村ジェーン』プロデューサー明かす秘話

 桑田佳祐が監督を務めた映画『稲村ジェーン』。1990年の公開時に観客動員約350万人を記録した伝説の音楽映画が6月25日、Blu-ray&DVDとしてリリースされた。

 「真夏の果実」「希望の轍」をはじめ、数々の名曲を生み出した本作。東京オリンピックの翌年(1965年)の稲村ヶ崎を舞台にした『稲村ジェーン』について、映画プロデューサーの森重晃氏にインタビュー。映画の企画が立ち上がった経緯、撮影時のエピソード、“映画監督・桑田佳祐”の印象などについて語ってもらった。(森朋之)

「何もない青春を描きたい」

ーー森重さんが映画『稲村ジェーン』に関わった経緯から教えてもらえますか?

森重晃(以下、森重):プロデューサーを引き受ける前に、桑田とふたりで2時間ぐらい喋ったんですよ。アミューズの会長から、「プロデューサーやらないか」って言われて。桑田はすでにスターだったけど、もしイヤな奴だったら、こっちもイヤじゃないですか(笑)。あと、少しは俺のことも「あいつだったら任せていい」と言ってくれないと、引き受けづらいというのもあったので。プロデューサーって言っても、当時俺はまだ34、5歳ですからね。プロデューサーとしては3本か4本しかやっていないわけで、そんなに経験値もない。そんなことで、「まずは二人で話してみて、桑田がOKであれば俺はやりますよ」と。

ーーそのとき、どんな話をされたんですか?

森重:10代の頃の話とかですね。俺は(桑田が)「茅ヶ崎で生まれ育って」というのはある程度知ってたけど、少年時代の話とかもしてもらって。学年は俺がひとつ上なんですけど、喋っているうちに、世代的にも「わかるな」というか。(映画に関して)いちばん印象に残ってるのは、「何もない青春を描きたい」っていう言葉だったんですよね。映画というのは「青春は美しい」とか「泣ける」「切ない」みたいなことをポイントにするわけですけど、「何もない青春を描きたい」というのは、すごくいいなと思って。その言葉を聞いて、「やります」って話をしたんですけどね。

ーー確かに『稲村ジェーン』は、何も起きない青春群像劇ですよね。“伝説の波が来る”というトピックはあるけど、圧倒的なクライマックスはない。

森重:そうなんです。しかも脚本の段階から、波に乗るシーンもほぼなくて。最後あたりで、主人公がボードを持って山を登るシーンがあるじゃないですか。あれがサーフィンだっていうイメージだったんですよね。公開当時は「サーフィン映画なんて言って、ぜんぜん波に乗らないじゃないか」という批判もあったんだけど、主人公の精神としては、あの場面がまさにクライマックスだったんです。

ーー実際のサーフィンのシーンは要らないだろう、と?

森重:はい。『稲村ジェーン』の10年くらい前に『ビッグ・ウェンズデー』とか、洋画のサーフィン映画が公開されて。でも、日本で撮れっこないですから(笑)。今みたいにCGなんてない時代だし、うまいサーファーを捕まえて、(サーフィンの場面を)撮ってみる気は正直なかったですね。それは「サーフィンのシーンは無理だから、違うやり方で」ということではなく、脚本の段階で「十分成り立っているな」っていうことだったんですけどね。

ーーなるほど。東京オリンピックの翌年、1965年を描いたのはどうしてだったんでしょう?

森重:(映画が公開された1990年の)25年前を描こうとしたんですけど、1965年は桑田も俺も10歳とかで、1965年は青春というわけではないんですよ。ただ、考えてみると65年は端境期だったかもしれないですね。その前に60年代安保があって、東京オリンピックがあって。1970年代には大阪万博があって、70年代安保があるんですけど、ちょうどその間の時期というか。映画のなかでも描かれてますが、(1965年には)もうベトナム戦争は始まってるんですが。

ーー米軍の将校(トミー・スナイダー)がベトナムに行くというエピソードが出てきますね。

森重:ええ。ただ、日本でベトナム戦争反対の運動が起きるのは、確か1966年くらいからなので。

ーー映画の舞台は、鎌倉市の稲村ヶ崎。映画『稲村ジェーン』によって、サザン=湘南のイメージがさらに強まった印象があります。

森重:まさに湘南だとか、あっちに住んでいるヤツらのお話ですからね(笑)。東京のことは意識してないし、遊びにいったりもしない時代だったんですよ、当時は。桑田は茅ヶ崎市の出身で、小学生、中学生まではずっと地元にいた。東京に行くようになったのは、大学に入ってからだって言ってました。

ーー現在のように、湘南=リゾートというイメージもなかった?

森重:なかったでしょうね。単に海水浴場に遊びに行くっていうだけじゃないですか(笑)、あの頃の湘南は。湘南っていう言葉自体、そんなにメジャーでもなかっただろうし。あとは加山雄三さんの若大将シリーズのイメージとか。

ーー『稲村ジェーン』は、若大将シリーズの影響もあった?

森重:どうなんですかね。桑田が最初にこの映画のアイデアを思いついたのは、新幹線に置いてあった小冊子の記事がきっかけだったみたいです。ボクゾーさん(佐賀和光氏)という伝説的なサーファーがいて、この方が湘南のサーフィンのはじまりだったという。桑田よりも、世代が一つか二つ、上の人ですけどね。

森重晃氏

ーーキャスティングに関しても、基本的には桑田さんがお決めになったんだと思うんですが。主役の加勢大周さんは、この映画であっという間にスターになりました。

森重:それは間違いないですね。映画の撮影が終わって、公開直前に確かコカ・コーラのCMが決まったんですけど、キャスティングした時点ではまったく無名でしたから。他のメインキャストも、まだ知名度はなかったと思います。金山(一彦)はちょっと出ていたけど、的場(浩司)もそれほどでもなかったし。清水美砂も『湘南爆走族』で織田裕二と江口洋介と共演はしていたけれど、まだ2本目ぐらいだったので。

ーーメインキャスト4人がほぼ新人というのは、かなり思い切ってますよね。

森重:すべてオーディションなんですよ。その段階から宣伝みたいにして進めようと。同じくアミューズが中心となっていた『アイコ十六歳』(1983年公開)という映画も、ほぼオーディションで選んでいて。

ーー主役は富田靖子さんですよね。

森重:そう。他には松下由樹、宮崎ますみなどが出てるんですが、それと同じように『稲村ジェーン』でも大々的なオーディションをやって。プロアマ問わず募集して、書類で選別して、監督と俺と助監督とで毎日100人ずつぐらい会って。メインキャストもそれで決めました。

ーー加勢大周さんを抜擢した決め手は?

森重:そりゃあ、カッコいいからですよ(笑)。演技の経験はほぼなかったから、台本の一部を読ませては、それを繰り返しやらせて。あとは他の役者とのバランスですよね。骨董屋のサーファーのヒロシ(加勢)、バンドでギターを弾いてるマサシ(金山)と、チンピラのカッチャン(的場)、謎めいた波子(清水)という。結果、あの4人でよかったなと思いますよ。

ーー「ビーナス」のマスター役の伊武雅刀さん、骨董屋の主人役の草刈正雄さんなど、脇を固める役者も豪華ですよね。

森重:そうですね。主人公たちが20歳くらいだったから、二回りくらい上のイメージで。伊武さん、草刈さんも40歳くらいでしたね。特別出演の伊東四朗さんも50歳くらいでしたから。

ーー尾美としのりさん、泉谷しげるさんも、めちゃめちゃ若いです。

森重:尾美としのりが、サーファーグループのリーダー役ですからね。今の彼からは想像できないかもしれないけど、当時はまだ20代前半だから。

ーー桑田さん、森重さんも30代。スタッフ陣を含め。当時の若手俳優やクリエイターが集まった映画という側面もありますね。

森重:自分と桑田が平均年齢ぐらいだった気がしますね。「徹夜で撮影しても大丈夫」というくらいの元気はあったんじゃないかな。今と違って、映画業界はブラックな職場でしたから(笑)。

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