Music Generators presented by SMP
ESME MORI、作家活動での出会いとクリエイティブ「常にいろんなものに触れていれば、次の作品が自分でも楽しみになる」
「Music Generators」は、そのタイトルが表す通り、音楽を生み出す作詞家・作曲家・編曲家・プロデューサーのクリエイティブに迫る連載。作家にとって転機となった作品や、制作における指針、クリエイティブへのきっかけを綴っていく。
iri、chelmico、Awesome City Clubらのプロデュースや作編曲、TVCMなど広告への楽曲提供などで幅広く活躍するサウンドプロデューサー/シンガーソングライターのESME MORI(エズミ・モリ)。大学時代からビートメーカーを目指す一方、言葉と歌への愛情からソロプロジェクト「ESME(エズミ)」をスタートさせ、2010年代前半にいち早くインディR&Bの流れとリンクする作品を発表していた彼が、試行錯誤の時期を経ながらも、2010年代後半に時代とのチューニングを合わせ、一気に活躍の場を広げたのは必然だったように思う。そんな中、3月にはESME MORI名義での初のフルアルバム『隔たりの青』を発表。「自分の2010年代を総括する作品になった」というアルバムは、同時に新たなタームの始まりを告げている。これまでのキャリアを振り返ってもらうとともに、今後の展望についても話を聞いた。(金子厚武)
ノートに詩のようなものを書くようになったのが創作の原点
ーープロフィールによると、「ヒップホップサウンドに衝撃を受け、独学でトラックの制作を始めた」とのことですが、これはいつ頃の話ですか?
ESME MORI(以下、ESME):ヒップホップという文化を知ったのは小6とか中1で聴いたDragon Ashが最初だったんですけど、高校生のときにTHA BLUE HERBやShing02を知って、彼らの言葉がかっこいいなと思って。それでラップを始めたわけではないんですけど、言葉を研究して、ノートに詩のようなものを書くようになったのが創作の原点だった気がします。
ーートラックではなく、最初は言葉だったんですね。
ESME:ピアノは3歳から高校生までやっていて、最後の発表会でショパンを弾いたりもしたので、音楽的な素養もちょっとはあったと思うんですけど、もともと本を読むのも好きだったんです。宮沢賢治とか、日本語の匂い立つ雰囲気みたいなのが好きだったので、どこに発表するでもなく、大学ノート2~3冊にいろいろ書き溜めてました。一応MPCは買ったんですけど、使い方が全然わからなくて、完全に放置しちゃってましたね(笑)。
ーーじゃあ、トラックを作るようになったきっかけは
ESME:大学に入って、初めてMacを買って、GarageBandを触ったときに、「これならできるな」と思って、それと同時にWARP RECORDSにどハマりして。Flying Lotusの『Los Angeles』を友達に教えてもらって、ビートがめちゃくちゃかっこよくて、これと同じようなことがしたいと思って、ひたすらインストを作るようになったんです。
ーーちょっと前にTwitterでハドソン・モホークのことをつぶやかれてましたね。
ESME:ハドソン・モホークを知ったのもその頃ですね。あとはBibioとかClarkとか。『Electraglide』にも行って、rei harakamiさんも出ていらっしゃったり、すごく楽しくて。なので、最初はビートメーカーになりたいと思っていて、Himuro Yoshiteruさんとかに憧れて、ひたすらビートの研究をして、できた音源をレーベルに送っていた中、LOW HIGH WHO? PRODUCTIONからリアクションがあって。
ーーそれで2012年にSolvents & Orbits名義のEP『Maple Hill』をリリースしたわけですね。そして、そこからレーベルメイトである不可思議/wonderboyやdaokoの作品にも関わるようになったと。
ESME:そうです。何か名義をつけようと思って、Solvents & Orbitsも確か宮沢賢治から取った気がします。不可思議/wonderboyさんはライブのときに後ろでピアノを弾いたりもして、daokoさんも2曲くらいプロデュースさせてもらいましたね。
ーーちなみに、大学生だったときにドラマ『SPEC』にも楽曲提供をしているそうですね。
ESME:大学3年か4年だったと思うんですけど、お世話になってる先輩に「『SPEC』の音楽やってみないか?」って言われたんです。「オペラの音源をカットアップして、Autechreみたいなのを作ってくれ」って話で、「どういうこと?」と思いつつ、「めちゃくちゃにしていいから」と言われたので、曲の後半は拍もないくらいな感じにしたら、その思い切りがよかったのか、その曲が採用されて。「こうやって音楽でお金をもらえるんだ」っていうのをそのとき初めて知ったので、ひとつのきっかけにはなりましたね。
ーー当時はネットレーベルとの関わりが深かったのでしょうか?
ESME:いや、2010年代前半はどこかのシーンに属してる感じは全然なくて、「どうやって自分の音楽を届けようか?」と模索している時期だったので、その中で歌も歌ってみようと思ったんです。ちょうどジェイムス・ブレイクが出てきて、ああいう感じのことを自分もやってみたいと思って、「ESME」というプロジェクトを始めて、その頃はインディR&B的な匂いのあるものばっかり作ってました。
ーーそれが形になったのが2012年にPOPGROUP RECORDINGSからリリースされたEP『The Butterscotch Sessions』だったと。この時点でインディR&Bの流れとリンクする楽曲を作っていたのは早いなと思うし、なおかつ「洋楽の真似」という感じでもなくて、ちゃんと日本語の歌ものになっているのが素晴らしいなと。
ESME:それは嬉しいです。僕は大学も文学部で、やっぱり日本語の美しさが好きなんですよね。一音で母音と子音がどっちもある、そのきれいさというか。短歌とかも好きで、現代短歌を研究するゼミに入ってたんですけど、リズムとか響きで意味以上のものを感じさせられるんです。その感じが好きなので、歌を始めたときからそれは常に意識してます。
ーーいわゆるシンガーソングライターへの憧れもあったのでしょうか?
ESME:憧れはめちゃめちゃあります。体を楽器にして歌ってるような人が好きで、七尾旅人さんとか前野健太さんはリスペクトしてるし、憧れもありますね。今シンガーの人のプロデュースをやらせてもらってるのも、やっぱり「歌が好き」っていうのが大きくて、ただトラックを作るのが好きだったら、また違ったタイプのプロデューサーになってたと思うんです。歌もののプロデュースをするときは、歌詞の想いも汲みながらやってるつもりで、「こういう想いを乗せて作りました」ってプレゼンするわけじゃないけど、僕なりに「歌詞やストーリーを音に変換するとしたら」みたいなことは考えながらやってますね。