川谷絵音手がける『ぼくは麻理のなか』劇伴の特徴は? “選曲のユニークさ”から考える
筆者が当サイトにて映像音楽についての記事を担当するのも今回で12回目。今まで通り具体的な映像作品の劇伴を例に挙げて解説していくことには変わりないが、今回は少し応用的な内容である。映像音楽ではいろいろな手法があり、それらが密接に結びついている。これまで取り上げてきた基本的な各種手法を元にし、フジテレビ系ドラマ『ぼくは麻理のなか』を題材に関連事項の発展という観点から、その音楽要素を考察していく。
川谷絵音が劇伴を担当、ドラマ『ぼくは麻理のなか』
本作の劇伴は、indigo la End(本作のオープニングテーマにて「鐘泣く命」が起用)、ゲスの極み乙女。などのメンバーである川谷絵音が担当。『ぼくは麻理のなか』の劇伴は、川谷の所属する両バンドの音楽性とも共通する点が見受けられる。
『ぼくは麻理のなか』は友人作りに失敗したことが原因でまともに大学にも行けなくなり、ゲームばかりの自堕落な生活に明け暮れる日々を送る青年・小森功(吉沢亮)が、行きつけのコンビニで度々遭遇していた女子高生の吉崎麻理(池田エライザ)の中に入ってしまうという新感覚の“男女入れ替わり”ドラマだ。ワケありの雰囲気が滲み出る柿口依(中村ゆりか)の存在も絡んできてそのドラマの内容、音楽ともに注目を集めている。
劇伴の考察①「登場人物の『営み』に対して付けられた劇伴」
第1話早々、小森功が吉崎麻理を尾行するシーンがある。いわゆる「ストーカー行為」をしているわけだが、この尾行のシーンから流れ始める劇伴がポイントだ。これは「登場人物の『営み』に対して付けられた劇伴」であり、これは人が生きているならではの苦しみ(今回の場合は、ストーカー行為に及ぶ内情)などからくる感情を音楽の面から表現している。
「ストーカー行為」が着眼点になっている場合、ストーカー側の視点の劇伴でも、そうではない(ストーカー“される”側の)視点の劇伴でも成立するが、今回は登場人物を悪い人物に見立てた音楽でまとめている。ディレイ(厳密には異なるがエコーに似た効果)がかかったピアノ系のサウンドにシンセサイザーのパディングや心臓の音とも感じ取れるパルス音が加わった、緊張感をもたらす劇伴となっている。
こういったタイプの劇伴は「直感的理解(同調)」という音楽話法で説明されることがある。つまり、第3者の視点から登場人物を理解しようとしているのである。よって、「感情移入させる劇伴」「異化効果を狙った劇伴」などとは少し異なり、「神の目線」や「俯瞰のまなざし型」などと呼ばれる。
このように、あえて映像と距離をおいた劇伴を用いることで、「音楽の対象となっている登場人物に感情移入する」視聴者もいれば、「登場人物の行動の意味を考える」視聴者もいるはずである。劇伴や映像の捉え方に「多面性」を与えるという点がこの種の音楽の特徴であり、使用される目的でもある。このシーンでは、「ストーカー行為」というアンモラルな行為と「自堕落な生活を送る大学生」という一人の青年の両面を浮き立たせるために、あえてこういった音楽を付与したのだろう。
劇伴の考察②「『谷間説』と解釈できる劇伴」
「谷間説」というのは映像音楽でしばしば用いられる用語で「ドラマ性の高くない所に音楽を入れる」手法のことだ。『ぼくは麻理のなか』は全体的にこの傾向が強く、映像作品のなかでは珍しい作風だが、この谷間説を生かすための工夫が多く、むしろ映像を引き立てている。その工夫の一つは、「音楽の『入り』や『カット』のポイントが大部分で登場人物のセリフや動作とリンクしていること」である。具体例としては、以下が挙げられる。
・考え事をしていた吉崎麻理が友人に話しかけられたタイミングで音楽がカットアウト(第1話)
・トイレでノックされたタイミングで新たな音楽が入る(第1話)
・小森功にとって意外であった「出掛けよう」という吉崎麻理の言葉がきっかけで音楽がカットアウト(第3話)
他にも多くの箇所でこういったパターンが見られる。いずれも映像としてはドラマ性が高いシーンではないが、これらのスポッティング時の工夫が、音楽が鳴っているシーンを効果的に見せているのだ。また、映像面での変化が少ない分、状況の変化の見せ方において音楽が大きな位置を占めている。
さらに、もう一つの工夫は、「逆にドラマ性の高い場所であえて音楽を抜いている箇所が見られること」である。
柿口依が吉崎麻理に対して「あいつらと一緒じゃん」などと思い切り怒りをぶつけているシーンがあるが、ここでは映像のドラマ性が高い部分であるにも関わらず音楽は付加されていない。別のシーンでも、ドラマ性が高い部分に対して音楽を抜いていたり、あるいは非常に静かなサウンドを使用している箇所が複数見られた。こういったことも緩急の差につながり、谷間説を生かすための工夫と解釈できる。