メジャーデビュー・アルバム『百六十度』インタビュー
ヒグチアイが明かす、挫折から再生までの道のり「自分の過去は「敵」ではないと気づいた」
シンガーソングライターのヒグチアイが11月23日、待望のメジャーデビュー・アルバム『百六十度』をリリースする。ピアノの弾き語りを基軸としたオーガニックなバンドアンサンブルと、自身の恋愛体験を基にした赤裸々な歌詞の世界、そして、昨今珍しいエモーショナルなアルトボイスが非常に印象的であり、例えばフィオナ・アップルや鬼束ちひろ、最近だと赤い公園の佐藤千明あたりを彷彿させるものがある。
幼少の頃から始めたクラシックピアノで大きな挫折を味わい、その後も疎外感や焦燥感を募らせながら、自分の居場所を手探りで探し続けてきたヒグチ。そんな暗闇から生まれた楽曲の数々は、私たち聴き手の心にそっと寄り添いながら、小さな灯火を宿してくれるだろう。
アルバムタイトルは、人間の視野(360度のうち200度)の残りの領域を指しているという。そこにはどのような思いが込められているのだろうか。新作についてはもちろん、彼女の生い立ち、挫折から再生までの道のりを訊いた。(黒田隆憲)
「ポップでキャッチーな曲が書けるものだとずっと思っていた」
ーー実に9年越しのメジャーデビューですよね。今の心境はいかがですか?
ヒグチアイ(以下、ヒグチ):実は、メジャーデビューのタイミングはこれまでにも2回くらいあったんですよ。ただその時は、自分の中で「ちょっと違うんじゃないか」っていう思いがあって。
ーーというのは?
ヒグチ:(当時のスタッフに)「こういう方向で曲を書いていこう」と言われたことが、自分としてはあまり本意ではなかったんです。「『ヒグチアイらしさ』っていうのがすごく分かりにくいところにあるから、とりあえずそれは無くしていこう」と。実際やってみたんですけど、それをヒグチアイ名義で出すのはちょっと嫌だなと思ってしまったんですよね。メジャーデビューのチャンスを逃してしまったことに関しては、やはり当時は後悔して夜も眠れない時期もありました。
ーーでも、そこは見送ったからこそ今回の形でメジャーデビュー出来たのですから、結果的には良かったのでしょうね。活動初期と比べて音楽的には変わりましたか?
ヒグチ:以前は「明るい曲を書かなきゃいけないのかな」と思っていた時もあって。「みんなが楽しめる曲じゃないといけないんじゃないか...」みたいな。例えば手拍子ができる曲とか、コール&レスポンスできる曲とか。そういうのを考えて作ったこともあったんですけど、今はそういう気持ちはあまりないですね。みんなで盛り上がるライブ、個人的にはすごく好きなんですけど、体を動かさずじっと聞いていても、楽しい時ってあるじゃないですか。ヒグチアイの音楽では、そういう楽しさを作っていけたらいいなとは思っています。
ーー女性ボーカルといえばハイトーンボイスが全盛の中にあって、ヒグチさんのアルトボイスはとても新鮮です。例えば荒井由実や吉田美奈子、鬼束ちひろなどの歌声も彷彿させますし、最近だと赤い公園の佐藤千明にも通じますよね。
ヒグチ:ありがとうございます。高い声......本当に出ないってことが分かった時には、ちょっとした絶望を味わったんですけどね(笑)。練習すれば出るようになるのかなと思ったんですが、そうでもないということもわかり。でも、この低い声って人が持っていないものだと思えば、あまりネガティブに考えなくてもいいのかなと。
ーー低い声がコンプレックスだったのですね。
ヒグチ:はい。よく、「落ち着いてるね」「頭良さそうだね」とか言ってもらえるんですけど、ただ声が低いだけで、基本的にすごくボーっとしている人間なんだけどなあ、って(笑)。それに、人からそうやって「落ち着いた頭の良い人」ふうに見られるなら、そう振舞わなきいけないんじゃないかと思うようになって。本当の自分と完全に切り離した「ヒグチアイ像」を作ろうと、2年半くらい前に思ってしばらく頑張っていたんですけど、それが段々辛くなってしまって。
ーーでしょうね.......。
ヒグチ:そこからは、もう一度「ヒグチアイ」を引き戻すというか。自分のコンプレックスをちゃんと受け入れ、「ありのままの平凡な自分でいいんだ」っていうことを表現したい、そういう本質みたいなものにようやく気がついたんですよね。
ーーそうだったんですね。
ヒグチ:それと、今まで自分はポップでキャッチーな曲が書けるものだとずっと思っていて、そういう曲が(レパートリーに)ないのは単に書いてないだけなんだと自分にも人にも言っていたんですけど、実際に書こうと思ったら全然書けないんですよ(笑)。そのことも最初はショックだったんですけど、「自分には出来ない」という事実を受け入れたら、無理に作ることもないんだなと楽になりました。「出来ない」ということを知るのも大切だと思いますね。
ーー元々、どんなキッカケで音楽が好きになったのですか?
ヒグチ:母親がピアノの先生をやっていて、うちは3兄妹なのですが兄がピアノを始めたのを見て、私も妹も「やりたい」って言ったみたいです。2歳からピアノを習い始め、声楽やバイオリンもやっているので完全にクラシック畑の人間なんですよ。それが小学校低学年くらいまで続いていたんですけど、そのうち親が家で流す小田和正さんや槇原敬之さん、何故か父が車で聴くシンディ・ローパーとか、そういうものにも興味が湧いてきて。中学に入学して合唱部に入り、その時にクラシックピアノとか全てやめて、「歌を歌おう」という気持ちになっていったのは覚えています。
ーー何故そこでスパッとクラシックピアノをやめたのでしょう。
ヒグチ:とにかく厳しかったし、過酷な競争世界なんですよ。一度「ショパンコンクール」に出たことがあるんですけど、楽屋へ行くと子供たちがたくさんいて、中国人の小さい子とかが一心不乱に机を鍵盤に見立てて練習してるんですね。それを見た時、「私には無理」って思ってしまったんですよね。こんなにずーっと、楽しそうに1日中ピアノを弾いている人たちに、勝てるわけがないと。
ーーそれは「挫折」に近い気持ちでした?
ヒグチ:そうだったと思いますね。同時に、「やっとやめられる」っていう気持ちもありました。中二からの2年間、ピアノを全く弾いていなかった時期が、もっとも自分のことを好きでいられたというか。ピアノをやっている時って、誰かに勝てないことが常にあったから、自分が好きじゃなかったんですけど、中二の頃はほんと、自惚れていたと思うくらい自分のことが好きだったんですよね。
ーー(笑)。
ヒグチ:で、高校に入ってバンドを始めて、自分の意思でポップスをやるようになるんですけど、高校三年生で曲を作り始めて、その頃からまた自分のことがあまり好きではなくなっていくんです。つまり、何か頑張っている時は自分のことが好きじゃないのか、と。
ーーうーん、業が深いですねえ。
ヒグチ:あははは。そうなんですよ。そこで自分を好きになれたらいいんですけど。どこまで行けば、自分のこと好きになれるんだろうって思います。
ーー今はどうですか。自分のことを好きになれています?
ヒグチ:うーん、そうでもないですね。前よりは頑張っていると思うし、仕事もしている気はするんですけど、それでも「あの頃よりも頑張れているのかな」とか、「もっと頑張れるだろ」って思ったりするんですよね。
ーー「自分は頑張っていないんじゃないか?」という思いがいつもあるのですか?
ヒグチ:ですね。「もっと頑張れるし、もっと頑張っている人がいるし」って。だから、自分のことが好きだと思い始めたら、「これは危ない!」って思ってます(笑)。