集中連載:90年代ジャパニーズヒップホップの熱狂 第2回
90年代ヒップホップ集中連載2:元祖B-BOY・CRAZY-Aが語る“4大要素”の発展と分化
ジャパニーズヒップホップが興隆し、日本語ラップやクラブカルチャーが大きく発展した90年代にスポットを当て、シーンに関わった重要人物たちの証言をもとに、その熱狂を読み解く書籍『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』が、12月上旬に辰巳出版より発売される。宇多丸、YOU THE ROCK★、Kダブシャイン、DJ MASTERKEY、CRAZY-A、KAZZROCK、川辺ヒロシといったアーティストのほか、雑誌『FRONT』の編集者やクラブ『Harlem』の関係者などにも取材を行い、様々な角度から当時のシーンを検証する一冊だ。
本書の編集・制作を担当したリアルサウンドでは、発売に先駆けてインタビューの一部を抜粋し、全4回の集中連載として掲載する。第2回は、80年代より原宿の“ホコ天”でブレイクダンサーとしてキャリアをスタートさせ、日本で初めてのB-BOYとも称されるCRAZY-Aが登場。ヒップホップカルチャーとの出会いから、現在ブームとなっているフリースタイルバトルの礎となったイベント「B BOY PARK」開催の経緯、さらにヒップホップの4大要素が日本でどのように受容されていったのかまで、じっくりと話を訊いた。
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「日本はヒップホップを始めるのが早かった」
ーーCRAZY-Aさんは、83年10月に『ワイルド・スタイル』が公開されるより少し前に、ヒップホップと出会っているんですよね。
CRAZY-A:俺は同じ年の7月に公開された『フラッシュダンス』っていう映画を観て、ブレイクダンスに興味を持った。その後に『ワイルド・スタイル』や『ビート・ストリート』(84年/ビデオリリース)で、ヒップホップへの理解を深めた感じかな。当時は南千住に住んでいたんだけど、原宿のホコ天に行けばやっている人がいるんじゃないかと思って、見に行ったの。いわゆるブレイクダンスをしている人はいなかったものの、パイオニアの“ディスコロボ”っていうラジカセが道端にポンと置いてあって、ラップっぽい音楽がかかっていた。そこでしばらく待っていたら、チラホラ人が集まってきて、自然と踊るやつも出てきて。そこで仲良くなったやつらと「来週もみんなで踊ろう!」みたいな感じになって、そのうちに俺も自分でラジカセを持っていくようになった。当時のホコ天には竹の子族やローラー族もいて、そのブームの終焉くらいに俺らがダンスを始めた感じで、最初は駅から一番遠いところでやっていたよ。
ーーホコ天ダンス文化の延長として、ブレイクダンスを始めたと。
CRAZY-A:俺の場合はそう。その後、ホコ天にはバンドブームに伴ってバンドが増えてきて、ラジカセだとまったく歯が立たないから、ターンテーブルとか音響機材を持ち込むようになっていった。俺はダンスを始めてすぐにDJもやり始めたんだけど、当時はDJミキサーがなかったから、秋葉原で部品を買ってきて横フェーダーを自作したりして。87〜88年くらいには、DJ KRUSHとかもホコ天でやり始めた。
ーー80年代の初期から半ばくらいに、同時多発的にいろんな人がヒップホップを始めたイメージですか?
CRAZY-A:ブレイクダンスに関して、一番早かったのは横浜のFLOOR MASTERSっていうチームの前身となったFUNKY JAMの連中だと思う。俺より年上の浅岡さんっていう方が、ソウルダンスの流れでニューヨークからブレイクダンスを仕入れてきて、おそらく『フラッシュダンス』の前に彼らは始めていた。俺らが組んでいた東京B-BOYSは、FUNKY JAMとよくバトルをしていたね。それから、浜松のAPPLE PYE ALL STARSもかなり早くからやっていたよ。でも、世界中で一斉に始まったのは、やっぱり『フラッシュダンス』と『ワイルド・スタイル』の影響。ちなみにヨーロッパは、公開時期の関係で日本より2年ぐらい遅れていたから、その経験の差で彼らとバトルして負けることはほとんどなかった。85〜86年だと、俺らはすでに2〜3年やっていたから。そう考えると日本はヒップホップ先進国だよ。DJ機材だって日本製のものが一番良いわけだし。
ーーCRAZY-Aさんは日本初のB-BOYとも称されます。改めて、B-BOYの定義をどう捉えているか教えてくれますか。
CRAZY-A:俺らの頃で言えば、B-BOY=ブレイクダンサーだった。俺自身もホコ天で踊っていたときに、白人の女性から「あなたたちみたいな人を、B-BOYっていうの」って教えてもらって、東京B-BOYSを名乗るようになった。当時はカーティス・ブロウとかはいたけれど、まだラッパーと呼べる人はほとんどいなかったんだよね。Run-D.M.C.が登場する前、MCの時代で、彼らの役割は革靴を履いてジャケットを着て、DJを盛り上げることだった。ブレイクダンサーが花形で、いまみたいにラッパーが前に出ていなかったんだ。その後、グランドマスターDSTのスクラッチを取り入れた、ハービー・ハンコックの「Rockit」(83年)で、ヒップホップDJが脚光を浴びた。ラップも、シュガーヒル・ギャングが79年に「Rapper’s Delight」を流行らせたりしたけれど、本格的に注目されるようになったのは、もう少し後だった。
ーー当時は全国的にブレイクダンスが流行していたのですか?
CRAZY-A:そうだね。風見しんごさんのバックダンサーとして全国ツアーに行った時は、訪れた先々のB-BOYたちとバトルをしていた。楽屋口で待っているやつもいれば、クラブで待っているやつもいて。俺は当時、テレビやステージでは風見しんごさんより目立っちゃいけないわけだから、そういう場では自分の技を隠しているわけだよ。だからやつらは俺の本当の実力を知らないのね。でも、キャリアが違うから実際にバトルになると圧勝しちゃう。全国制覇するつもりでやっていて、楽しかったな(笑)。