ケロポンズが語る、子どもの心をつかむ秘訣「自分たちが思い切り楽しめることが一番大切」

ケロポンズが語る、子どもの心をつかむ秘訣

 保育界では知らない人はいないという、カリスマ女性2人ユニットのケロポンズ。YouTubeで1300万回以上も再生されている大ヒット曲「エビカニクス」をはじめ、すでに1000曲を超えるレパートリーを持つ彼女たちのステージは、歌、踊り、笑いと、何でもあり。フジロックにも4年連続で出場するなど、子どもだけでなく大人も楽しめる一大エンターテイメントに中毒者が続出している。

 ケロポンズの楽曲には、子どもの心をつかむ要素が数多く含まれている。例えば、オンビート(表の拍)を強調したわかりやすいメロディに、ストーリー性よりも語感の楽しさを強調した、ナンセンスかつインパクトのある歌詞(実は、深いメッセージが隠されている場合もあるのだが)。それらをシンプルな8ビートやシャッフルのリズムに乗せて、繰り返し歌うことによる高揚感が、どの曲にもあふれている。また、ギロや口琴、タブラ、シンセといった不思議な音色の楽器や、アラビア音階、ブルースノートなどをフィーチャーしたエキセントリックなフレーズなどは、子どもだけでなく大人にとっても理屈抜きで心に響く魅力があるのだ。

 ケロポンズの2人は、そうした要素をどこまで意識的に楽曲に取り込んでいるのだろうか。このたびベストアルバム『おどってあそぼう!! ケロポンズBEST』をリリースしたケロ(増田裕子)とポン(平田明子)の2人に、結成までの経緯や前身バンド「トラや帽子店」のこと、子どもも大人も夢中になる曲作りの秘密や、「エビカニクス」ニューヨークレコーディング秘話、世界の子どもにも踊ってもらえればと公開した「エビカニクス」外国語バージョンなどについて、たっぷりと語ってもらった。(黒田隆憲)

「トラや帽子店のステージを見て衝撃を受けた」(ポン)

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左からポン(平田明子)、ケロ(増田裕子)

ーーもともとケロさんは、中川ひろたかさん、福尾野歩さんと「トラや帽子店」というバンドで1987年から1998年までの11年間活動していたそうですね。学生時代その「トラや帽子店」に出会って虜になったポンさんと1999年に結成したのがケロポンズだと聞きました。

ケロ&ポン:そうです。

ーーお二人が音楽に目覚めたキッカケは?

ケロ:私は小学校1年生のときからピアノを習っていて、歌うことも好きだったので、音楽の先生かピアノの先生、あるいは幼稚園の先生になりたいと、なんとなく思っていたんですね。で、音大を受験するときに、ふと子どもにも興味を持つようになって。「音楽と子ども」について学べる場所はないかなと思って調べたら、国立音楽大学に「幼児音楽教育専攻」っていうドンピシャな学部があって。そこを目指して勉強して受験したんです。

ーーどんな音楽が好きだったんですか?

ケロ:小さい頃はソノシートで(笑)、倍賞千恵子さんの「さよならはダンスの後に」(1965年)など、昔の歌謡曲をいっぱい聴いていましたね。もう少し大きくなると、八神純子さんや松任谷由実さん、オフコースあたりが好きになって。大学生の頃は、矢野顕子さんをよく聴いていました。それと、4つ上の兄がいて、隣の部屋でピンク・フロイドとかプログレばっかり聴いていて、それがうるさくてうるさくて、ものすごく嫌だったのを覚えています(笑)。でもなんか、すごく印象に残っているんですよね。矢野顕子さんが好きになったのも兄の影響なんですよ。

ポン:私はケロさんとまったく逆で。左利きだったんですけど、当時は「女の子の左利きは良くない」とか言われて、2歳半くらいから利き手の矯正のために、ピアノを習っていました。先生がすごく厳しくて、左利きだから左の打鍵が強くなってしまうのを、ものすごく怒るんですよ。手をパン!って叩かれて「左が大きい!」って怒鳴られて。

ケロ:かわいそう(笑)。

ポン:「もう行くの嫌だ」と言っても無理やり母親に連れて行かれ、中学までずっと通っていました。だからピアノも、最初は大っ嫌いだったんですよね。ただ、小学生のときにすごくいい先生に出会い、小学校の先生になりたいって思うようになるんですよ。小学校の教員免許を取るには、大嫌いだったピアノをもう一度やらなくちゃいけなくて...(笑)。楽譜もほとんど読めない状態だったので、高校に入ってから習いなおしました。

ーーケロポンズの前は、何か音楽活動をしていました?

ポン:私は広島で育ち、大学では「ヒューマンソンググループ ザ・わたしたち」という、どちらかというとフォークっぽい感じの学外サークルに入ったんです。そこは広島という土地柄もあり、「平和」や「人権」などメッセージ性の強いグループでした。サークル内に「子どもプロジェクト」というのがあって、そこで子どもたちとキャンプしたり、あそびうたを書いたり。そして、大学4年のとき行ったとあるセミナーで、トラや帽子店のステージを見て衝撃を受けました。

ーーどんなふうに?

ポン:それまでは「子ども向けのコンサート」というと、子どもが喜ぶのを大人が見て喜ぶみたいな、そういうコンサートのイメージしかなかったんですよ。でも、トラや帽子店のコンサートは、大人は大人で喜ぶし、子どもは子どもで喜んでいるんですね。子どもは理解できないギャグもバンバン言って、大人がドッと笑ったりしているわけです。「こんな世界があったんだ」ってショックでしたね。それから彼らの大ファンになり、広島に呼んでイベントを主催するようになったんです。

ケロ:初めての主催で800人も集めてくれたんですよ。

ーーすごいですね!

ポン:なんていうか、トラや帽子店は舞台と客席の境がないんです。巻き込まれちゃうっていうか。それも無理やりっていうのではなく、気がついたら一緒になって歌ったり踊ったり、笑ったりしているっていう。見ているのか、参加しているのかわからなくなっているんですよ。普通のコンサートとは全然違いますね。お客さんをすごくいじるし、子どもたちにも毒舌を吐く(笑)。そんなところに中毒性があったように思います。

ーー「ヒューマンソンググループ ザ・わたしたち」とも違いました?

ポン:例えば、「幸せ」について歌うときも、「ヒューマンソンググループ ザ・わたしたち」は直球なんですね。トラや帽子店はもっとふんわりした、例えば「虹がかかった空は綺麗だったね」みたいな表現で、メッセージを込めていくバンドだったんです。どちらのアプローチもいいと思うのですけど、私が好きなのはトラや帽子店のアプローチだったんです。

ーートラや帽子店のときには、今の活動の大まかなコンセプトは確立されていたわけですね。そこにいくまでは試行錯誤はありましたか?

ケロ:ありました。当時の私は、パネルシアター(パネル布を貼ったボードに、絵を貼ったり外したりしながら展開する「動く紙芝居」のようなあそび)専門で、福尾さんはあそびうたを使って1000人ぐらいの人を笑わせられるパフォーマー、中川さんはソングライティングが得意だったので、3人で試行錯誤しながら色々と組み合わせ、演目をブラッシュアップしていきました。当時、『音楽広場』(クレヨンハウス)という保育雑誌に、あそびうたやパネルシアターの連載をしていたんですね。毎月作らなきゃいけなかったから、とりあえずステージで試して、「これはウケたから採用」「これはイマイチだったからボツ」っていう感じで、取捨選択していました。

ーー他に、「トラや帽子店」と同じような活動をしている人たちはいたのですか?

ケロ:人形劇のようなスタイルはありましたけど、わたしたちのような、音楽を取り入れた活動は珍しかったかもしれないですね。もちろん、中世の古楽器を使ったグループ「ロバの音楽座」など、何組かいらっしゃいましたけど、トラやみたいにお客さん参加型バンドっていうのは他になかったかも。とにかく、自分たちが面白いと思ったことを、素直にやっていただけなんですけどね。それが伝わったということでしょうか。

ーー今のような衣装になったのはケロポンズになってから?

ケロ:そうです。トラや帽子店のときも派手な衣装だったんですけど、わたしは「裕子おねえさん」と呼ばれ、キレイなスカートにハイヒールとか履いてました(笑)。ケロポンズでは、どうしても全身タイツが着たかったんですよ。というのも、15年前に「エビカニクス」という曲が出来た時にひらめいちゃったんですよね、「わたしがオレンジのエビで、ポンちゃんは赤いカニがいいな」って。そこから衣装も進化していって、今はこんな感じでやっています(笑)。

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