栗原裕一郎の音楽本レビュー 第10回:『詩的で超常的な調べ 霊界の楽聖たちが私に授けてくれたもの』
リスト、ベートーヴェン……霊界の楽聖たちの作品を代筆!? 音楽霊媒師が書き残した奇書を読む
まあ、奇書である。
1970年代に入ろうとする頃、一人のイギリス人女性にマスコミの注目が集まり始めた。名前はローズマリー・ブラウン。50歳前後の、見る限りはごく普通の一般女性である。
関心は、彼女が持っているという、ある特異な能力に向けられていた。
霊界と通信している、死者と対話しているというのだ。
つまり霊媒である。それだけなら真偽はさておきよくある話にすぎないのだが、ローズマリーの場合、降ろしてくる対象が一風変わっていた。
彼女の交信相手は、音楽史上に名を連ねる楽聖たちであり、霊界からやってくる彼らに頼まれて、彼らの作曲する楽曲を楽譜に記録していると主張したのだ。
幽霊たちの代筆をしている——まさしくゴーストライターである。ゴーストの立場が逆だけど。
彼女がコンタクトしていたという作曲家(の霊)は錚々たるものだった。
フランツ・リスト、フレデリック・ショパン、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フランツ・シューベルト、ロベルト・シューマン、ヨハネス・ブラームス、エドヴァルド・グリーグ、クロード・ドビュッシー、セルゲイ・ラフマニノフ、ヨハン・セバスティアン・バッハ、エクトル・ベルリオーズなどなど。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトやフランシス・プーランクなんかもちょこっと来たものの、あまり仲は良くなかったらしい。ジョン・レノンの代筆もいくつかあるという。音楽家のほかにも、アルベルト・アインシュタインなどもよく彼女のところに来たそうだ。
普通なら、狂人の妄言、あるいは目立ちたがり屋の狂言の類と片付けられて相手にされなかったに違いないところだが、ローズマリーは実際に、楽譜を多数、それもわずかな期間に、個人の能力を超えていると思われる量の楽譜を生産していた。それぞれの楽譜も、リストならリストの、ベートーヴェンならベートーヴェンの作風の個性や記譜上の癖などがそれなりに認められるものだった。
彼女は本書に400曲以上書いたと記しているのだが(音楽霊媒師となってから5、6年ほどのあいだに)、訳者によると現在350曲ほどが確認されているらしい。紛失したり人にあげてしまったりしたものもあるので、総数はもう少し多いと思われる。
やがて彼女が代筆した楽曲を高く評価するプロの音楽家や音楽研究者も少なからず現れ出す。たとえば映画音楽で名高い作曲家リチャード・ロドニー・ベネットなどは「長年訓練を積んだ人でなければこれほどの音楽を偽造することはできないでしょう。〔ブラウン夫人が書き取った〕ベートーヴェンの何曲かは、私だったら書けなかったと思います」と漏らしたそうだ。
だが、彼女は、ほんの数年ピアノのレッスンを受けたことがあるくらいで音楽の素養はほとんど備えておらず、貧しい生まれだったためクラシック音楽を聴くという習慣すらろくに持ったことがないと主張していたのである。
英国放送協会(BBC)は彼女のドキュメンタリー番組を放映し、フィリップス・レコードは彼女が書き留めた楽曲のアルバムを制作した。
称賛と、同じくらいの量の批判や非難、懐疑が渦巻くなか、80年代に入ると高齢と病気のためにローズマリーの活動は少なくなり、次第に忘れられていき、2001年に85歳で亡くなった。
彼女は数冊の本も残している。その最初の著作、1971年に出版された『Unfinished Symphony: Voices from the Beyond』の全訳が、今回取り上げている『詩的で超常的な調べ 霊界の楽聖たちが私に授けてくれたもの』である。
自伝を相対化する訳注
忘れ去られていただろうこの本が、なぜ今になって邦訳出版されることになったのか経緯などはわからない。前出のアルバムも、本書の出版と同時期の昨年11月にCDで復刻されている(『ローズマリーの霊感 詩的で超常的な調べ』)。
このアルバムには、リストを中心として、ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、ドビュッシーなど(の霊)がローズマリーに書き取らせたという曲の演奏が収められているのだが、タイトル表記が「グリューベライ(inspired by リスト)」といった具合になっている。
著作権法はいうまでもなく霊の著作権などというものは想定していないから、著作者は当然ローズマリーである。しかし本当の作者はあくまで死んだ楽聖たちであることが強調されねばならない。「inspired」という表記にはそうした葛藤が織り込まれていると見ることができるだろう。
「この音楽が何らかの形で公表されれば、そこに印税が発生します。私は一生懸命この仕事に取り組んでおり、一生懸命に仕事をすることは報酬を受け取る資格を人に与えます。そのため作曲家たちは、印税を受け取ることを強く私に勧めました」
さて本書は、タイトルからはわかりにくいが、帯に小さく書かれているとおり、ローズマリーによる自伝である。彼女が幼少の頃に最初に接触を図ってきて、以降ずっと霊界の作曲家たちの代表であり、彼女ともっとも親しい関係を持ち続けるのはリストなのだが、リストが曲を書き取る仕事を依頼してきたのは1964年だそうなので、彼女が音楽霊媒師として活動を始めてから6年ほど経った頃に書かれたものということになる。
自伝という性格に加えて、メディアの関心が高かった渦中に書かれたものであって、ローズマリーに起こった事象を検証するような質の書物ではない。批判や疑問があったことも避けずに記されているものの、スピリチュアリズムに疑念が差し挟まれることはなく、というよりむしろスピリチュアリズムの真正性を世に喧伝するべく書かれたものだ。
訳者・平川富士男氏のプロフィールには「メーカー・商社等勤務を経て、近年はスピリチュアル・ヒーリング(霊的治療)の勉強と実践に傾注」とあり、やはりスピリチュアル側に立つ人物である。だがこの本は、依頼されたスピリチュアル系の人材が一朝一夕に訳したものではない。それは訳注や解説から読み取れる。
特に分量的に本文に匹敵するのではないかというほど詳細な訳注には、音楽的な面から、歴史事実的な面から、スピリチュアリズムの面からなど多角的にローズマリー・ブラウンを研究検証した成果が注ぎ込まれており、スピリチュアリズムを肯定する立場である以上、中立性が確保されているとは評価しづらいものの、相対化する役割をある程度はたしているといえるのではないかと思う。