「うた」へと向かう若手ロックバンドたち――音楽シーンのJ-POP回帰を考察

「J-POP誕生秘話」から見る2010年代のバンドシーン

 自分が音楽を聴き始めた90年代の初頭から中ごろは「J-POP」という呼称が一気に世の中に広まった時期とちょうど重なるが、当時は安室奈美恵もZARDもスピッツもジュディマリもひっくるめて「今までの歌謡曲とは一味違う日本のヒットソング」にはすべて「J-POP」というラベルがつけられていた。この言葉が生まれた場所はラジオ局のJ-WAVE。「洋楽主体の放送プログラムの中で流しても違和感のない邦楽」を選別するための記号として作られた名称であり、開局から1年後の89年に「Jポップ・クラシックス」というコーナーが始まっている。

「J-POP」の誕生当初、どんな音楽がそれに該当するのかについては「演歌やアイドルはダメで、サザンオールスターズ、松任谷由実、山下達郎、大瀧詠一、杉真理はOK」というように感覚的に決められていったという。烏賀陽弘道「J-POPとは何か -巨大化する音楽産業-」には、この言葉に込められた発信者たちの思惑が下記のように記録されている。

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「『それまでの日本とはちがう日本』『世界に対峙しうる日本』の時代がやって来た。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』。そんな雰囲気があふれていました。音楽も、それまで邦楽は西洋のポップスに負けていたけれど、これからは追いつかなくちゃいけない。そんな意味があったと思います」

 当時ビクターミュージックエンタテインメントの宣伝課長として「Jポップ」という言葉の誕生に立ち会った斎藤英介はそう振り返る。J-WAVEの斎藤日出夫も、次のように言う。

 「和製エルビスとか和製ポップスでは、いつまでたってもオリジン(本家、元祖)に勝てないですよね。『Jポップ』には『オリジンになりうる音楽』という願いが込められている」(『J-POPとは何か -巨大化する音楽産業-』)
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 こういった思いのもとに作られた「J-POP」という音楽ジャンルは、テレビドラマやカラオケボックスといった当時の社会風俗と結びつくことで一大産業へと成長。「従来の歌謡曲と比べてなんとなく洗練された音楽」程度の意味合いしか持たなかったこの記号は、鳴らされるシチュエーションに適応するかのように「一発で覚えられるメロディ」という特徴を備えていく。カラオケで歌いやすいか否か、ドラマで流れるワンコーラスもしくはCMで流れるたったの15秒だけで印象に残るか。お茶の間に流れる音楽はそんな観点で評価されることになった。

 こんな経緯を改めて確認したうえで昨今の「邦ロック」界隈について眺めてみると、ここまで挙げてきた「J-POPの精神」が過剰に達成された状態になっていると言えるのではないだろうか。たとえば、たびたび盛り上がる「洋楽をルーツとしないバンドの台頭」という話題はまさにJ-POPが生まれた際の心意気が完全に具現化された状況である。幸か不幸か、若者に支持される音楽を生み出すために海の向こうに源流を求める必要はなくなった。また、ライブハウスやロックフェスにおいてオーディエンスが求める「一体感」という要素も、突き詰めていけば「同じテレビドラマを見て主題歌に涙する」「カラオケボックスでみんなで歌う」のと根本的には変わらない。90年代にもてはやされた「一発で覚えられるメロディ」という音楽的な特徴は、「一発で乗れる、踊れる、声を出せるサウンド」という形で先鋭化していった。

 音楽プロデューサーの亀田誠治は、自身が司会を務める「亀田音楽専門学校」の中で「最近のトレンドである四つ打ちロックは、90年代の小室サウンドを日常的に嗜んでいたミュージシャンから生み出されている」と指摘している。「いわゆる流行りものとは違う音楽を聴いている」というリスナーの矜持によって支えられている側面もあるバンドシーンだが、実はその空間のルールは「もっとも音楽が売れていた時期のもっとも流行っていた音楽」によって規定されている。

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