成馬零一『世界の終わりのいずこねこ』映画評
いずこねこ主演映画が描く、2.5次元のリアリティ 荒唐無稽ながらも生々しい物語を読む
予告編を観た時に最初に連想したのは庵野秀明の映画『ラブ&ポップ』だ。『新世紀エヴァンゲリオン』以降、先鋭的な映像で当時の風俗を抉りとっていた90年代の庵野秀明が、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』に向かわずに、『ラブ&ポップ』や『式日』の方向性を進化させていたら、こういう作品を作ったのかもしれない。
それはイツ子の動画配信場面における、視聴者のコメントに強く現れている。コメントはすべて竹内監督が編集で追加したものだが、ひとつひとつがいちいち面白く、その背後にいる視聴者の人間性がしっかり伝わってくる。しかも、コメントで伏線を張りストーリーを誘導するというアクロバティックなことまで行っているのだ。
このあたり、竹内の敬愛する神聖かまってちゃんのニコ生を見続けたことで磨かれたセンスの賜物なのだろうが、『エヴァ』で多用されたテロップの現在版にも見える。
そもそも、いずこねこ自体、どこかアニメ的である。
現在、00年代に萌えアニメで表現されていたことは、2次元と3次元の間を行く2.5次元の表現として、生身のアイドルたちによっておこなわれている。
このような作品がアニメではなく、アイドル映画から生まれたことには驚かされるが、ある種の必然だったのかもしれない。
背景となる世界観も禍々しい魅力を放っている。2011年に謎の疫病が流行り、東京は壊滅。生き残った少数の人間は木星に移住し、残された人々は大阪に第二の東京を作り、今と似たような日常を過ごしている。これはもちろん東日本大震災の暗喩なのだろう。しかし、世界規模でエボラ出血熱が問題化されている現状を考えると、荒唐無稽に見えながらも、妙に生々しいものとして迫ってくる。
3.11以降の日本とどう向き合うかという課題は、多くの作家のクリエイター魂に火を付け、各ジャンルで傑作が生まれた。しかし、あの時、多くの日本人が考えた原発問題を筆頭とする東京と地方の格差を見つめなおしたいという思いは、2020年の東京オリンピックに向けて東京への中央集権化が進む中、なし崩し的に過去へと押しやられつつある。
そんな中、本作は未来からの視点を用いることで、現在を記述することに成功している。逆に言うと「遥か昔、2011年」という語り口でしか、私たちは現在を語ることができなくなりつつあるのかもしれない。
イツ子の親友のスウ子(蒼波純)は、白いヘルメットを被り「反対!!」と書かれたプラカードを持って、人気のいない街頭に一人で立つ。彼女が何に反対しているのか、映画を見終わった後もずっと考えている。
(文=成馬零一)
■映画情報
『世界の終わりのいずこねこ』公式ホームページ