『オクトパストラベラー 大陸の覇者』:「課金」との接し方と物語への没入回路

『オクトパストラベラー』と「課金」を考える

「操作の快楽」を追求したことから見えるもの:「個人的な物語」の肯定

 最後に、ここまで見てきたような「操作自体の快楽」がどのような機能を果たしているかを考えてみよう。以下に述べるのは、ゲームをプレイした上での筆者なりの見解である。

 作中でメインシナリオとは関係ない「トラベラーストーリー」が濫立し、同時にそれらを攻略する過程自体の快楽を開発陣が強調していることは、「個人的な物語」の肯定を意味する。すなわち、ゲームの舞台となるオルステラ大陸に生きる旅人たちは一人ひとり「個人的な物語(=トラベラーストーリー)」を生きていて、それらは魅力的であるということの宣言でもある。

 またこのことは、政治の水準で何が起きていようとも変わらない。同作において、恐怖政治を行い人々を虐げている3人のボスキャラ・タイタス、ヘルミニア、アーギュスト(「大陸の覇者」たち)がどれだけ悪事を働こうとも、旅人たちは個人的かつ魅力的な「トラベラーストーリー」を生きている、あるいは生きるしかない。まるでパンデミックが起きようと誰が大統領になろうと、個人の生活(ストーリー)を全うするしかない私たちと同じように。あるいはSNSに個人的な「ストーリー」を投稿し続ける私たちと同じように(※3)。

※3 インターネット上に自己の意見や行動の記録(すなわち「個人的な物語」)を発信することをまとめて、比喩的に「ストーリーの投稿」とここでは呼ぶ。

 この構造が、つまりRPGの主人公が現代の私たちと同じように「個人的な物語」の持ち主であることが、ゲーム世界への新たな没入回路として機能していないだろうか。

 かつて、日本にRPGがもたらされたころは「主人公がしゃべらないこと」でプレイヤーは自己を主人公に投影することができた。あるいはやがて技術が進化し、主人公のビジュアルを自由に設定できるようになったことも、ときには主人公への自己投影機能を果たしていただろう。

 しかし、それらの手法は、今や使い古された。もちろんその手法自体を否定はしないが、「主人公がしゃべらないから」というだけで、主人公がプレイヤーである自分と同化していると考えるには、あまりにも時間が経ちすぎている。

 そうなったとき、フィクションへの没入回路として新たに機能するのは、主人公(たち)が私たちと同じような「個人的な物語」の発信者であることではないだろうか。しばしば公共性を欠く、個人的な「ストーリー」を投稿し続ける現代の私たちと、メインシナリオから離れた個人的な「トラベラーストーリー」を生きるオルステラの旅人たちは、構造的に共通するものがあると思えてならないのである。

 そして『大陸の覇者』の作中においては、個人的な「トラベラーストーリー」を持つそれぞれの旅人のうち、誰を主人公に選んだとしてもラスボスにたどり着く。このことが同作においては英雄譚への没入回路として機能しており、同時にまた、「個人的な物語」というものは(よくも悪くも)必ず政治に接続していることをも示している。

■徳田要太
フリー(ほぼゲーム)ライター。『スマブラ』ではクロム使いで日課はカラオケ。NiziUのリク推し。Twitter

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「コラム」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる