『ちいかわ』が巨大“キャラコンテンツ”になった理由 漫画研究&キャラクター論から紐解く

『ちいかわ』を漫画研究&キャラ論から分析

「キャラ」が「キャラクター」を生きる『映画ちいかわ』の過酷さ

 『ちいかわ』の世界では、ほかのゆるキャラアニメとは異なり、いわばキャラクター(的キャラクター)とキャラ(的キャラクター)が同居している。

 たとえば、つい最近も、ライターの丹渡実夢は、ちいかわたちが「人間とはまったく別の“主体”のありかた」を示しているのではないかと述べていた。丹渡によれば、『ちいかわ』のキャラクターたちは互いを名前で呼ばない。これは、学校や病院、メディアといった「大文字の他者」(国家のイデオロギー装置)から「おい、○○!」と呼びかけられることによって人間は主体になるという、かつてフランスのマルクス主義哲学者ルイ・アルチュセールが有名な論文「国家と国家のイデオロギー装置」(1970年)で定式化した、「呼びかけinterpellation」による「主体=従属化assujettissement」のモデルにはそぐわない。むしろ、彼らは共感や経験に基づく――言うなれば「ゆるふわ」で中途半端な――オルタナティヴな主体性を保持しているというのが、丹渡の解釈だ。

『ちいかわ』のキャラたちはなぜ“名前で呼ばれない”のか? 初見勢が観た劇場版の衝撃

『映画ちいかわ』は、名前ではなく“共感”と“食”を通して他者との境界を乗り越え関係を築く、人間とは異なる主体のありかたを描いた作…

 この丹渡の見立ては面白いが、これを私なりに受ければ、なぜ彼らの主体性が「別のありかた」をしているのかと言えば、「『人格』を持」ち、「その『人生』や『生活』を想像させる」主体=キャラクターになりきれない、いわば「準–キャラクター」=キャラとしてのちいかわやくりまんじゅうや古本屋が、物語の中心にいるからだ。

 とりもなおさず、よく言われる『ちいかわ』世界から感じられる独特のシュールさ――ゆるふわキャラの絵柄とダークで世知辛い展開とのギャップというようなものは、思うに、「討伐や労働に明け暮れるちいかわたちの不憫な姿が私たちのこのすさんだ現実世界の寓意になっている」……といった、その内容に由来する理由だけでなく、形式的には、いわばゼロ年代以降のメディアミックス文化や二次創作文化のなかで「キャラクター」として固有の生から解放されたはずの「キャラ」たちが、ある種、(「キャラ」のままで)また「キャラクター」としての過酷な生を無理やり生きさせられているという歪み(悲哀?)から来るものでもあるのではないだろうか。

 ちなみに、あとキャラクター論の文脈で、やはりここで触れておきたいのは、評論家の大塚英志による、これも現代のマンガ批評やアニメ批評では大変有名な、「アトムの命題」=「傷つき/死ぬ記号的身体」の問題だ。

 マンガやアニメのキャラクターは、私たち現実に存在する生身の人間とは違う絵=記号で描かれた存在にすぎない。それゆえに本来は、ミッキーマウスのように、彼らは傷つきもしなければ死にもしない。だが、そのバーチャルな記号的身体を通じて、いかに「死」=固有の実存を描きうるか――それが、手塚治虫以来の戦後日本のマンガとアニメが抱え込んだ重要な難題=「まんが・アニメ的リアリズム」だったというのが、大塚が繰り返す主張だ。『人魚の島のひみつ』のなかでも、登場人物が他のキャラクターを撲殺したり、また逆に瀕死の重傷を負ったりする。ここにもまた、大塚のいうまんが・アニメ的リアリズムの問題が表れているわけだが、通常はそれを物語のなかでいかにも固有の人生を送っていそうなキャラクターが体現するところ、いかにもゆるキャラっぽい、またしても言葉を発しない「キャラ」的なキャラクターがそれをやるので、本作はいっそう込み入っているのだ。

 さらに、SNSが普及した2020年代の現在においては、マンガをめぐるメディア環境は、ますます「キャラ」に親和的なものに接近している。

 マンガ研究者の三輪健太朗が指摘したように、それが「SNSなどを通してマンガの画像が流通する場面」である。今日では、「どこかしら印象的なマンガの一コマが、出典を明記されないままに世界中に拡散するといった事態」がX(旧Twitter)やTikTokなどで常態化しており、それゆえ「各々の作品からは文脈や歴史性が希薄化してい」っている。あまつさえ、たとえば『ポプテピピック』のように、むしろ「作中の任意のコマが文脈と無関係に切り出され、断片として閲覧されることをあらかじめ許容し促してさえいるかのよう」な作品も散見されるようになっている。

 というより、周知のように、ほかならぬ『ちいかわ』という作品自体が、もともとはTwitter(現在のX)上で数ページでの連載が始まったウェブマンガである。その意味で本作こそ「マンガの流通や受容の局面がソーシャル化しつつあること」=キャラクターを描くマンガがキャラ的に消費されることを織り込んで描かれた作品だった(ここまで「断片化と物質性」、前川修・奥村弘編『マンガ/漫画/MANGA』神戸大学出版会、230-232ページ)。

 繰り返すように、そんなキャラ的な環境に親和性の高いウェブマンガから生まれ、あたかも「キャラ」としての拡散性・複数性を謳歌していたキャラたちが、それと対極的な、傷つき、死ぬ身体を課せられるような、過酷な「キャラクター」としての固有の経験を強いられる世界、それが、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』なのだと言える。

 しかも、今回の劇場版の重要なモティーフが、食べると「永遠のいのち」が得られるという人魚の肉である。この「不死」のイメージこそ、記号的身体、つまり「キャラ」に仮託された本質的特性にほかならない。一方で、ちいかわたちはみんなで「今日の日はさようなら」を歌う。その歌い出しの「いつまでも 絶えることなく」もまた、永遠=不死の意味を宿す。

 だとすれば、この映画は、自らのキャラ性を歌う現代のウェブから生まれたキャラたちが、食べるとキャラになる人魚の肉をめぐって、「キャラクター」として生き直すことを試みる物語、ということになるだろう。

 『映画ちいかわ』を観終わったあとの、あのなんとも言えない感じの一端は、おそらくこの厄介さにあるのだ。

■公開情報
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』
全国公開中
キャスト:青木遥(ちいかわ)、田中誠人(ハチワレ)、小澤亜李(うさぎ)、井口裕香(モモンガ)、内田雄馬(ラッコ)、淺井孝行(くりまんじゅう)、島袋美由利(シーサー)、春海百乃(古本屋)、最上嗣生(島二郎)、鈴木みのり(セイレーン)
原作・脚本:ナガノ
監督:及川啓
キャラクターデザイン:辻智子
コンセプトアート:橋本真樹
プロップデザイン:高妻匠
色彩設計:長井彩香
美術監督:眞﨑萌
CG監督:中野祥典
撮影監督:岡﨑正春
編集:高橋歩
音響監督:土屋雅紀 
音響効果:倉橋裕宗(オトナリウム)
音楽:トクマルシューゴ/上水樽力
アニメーションプロデューサー:溝口侃
アニメーション制作:サイピク
製作:川上洋一、古澤佳寛
エグゼグティブプロデューサー:松崎容子
プロデュース:今福太郎
プロデューサー:小峯雅隆、障子直登
宣伝プロデューサー:林原祥一、斎藤愛子、狩野裕明
製作幹事:QTORY inc.
配給:東宝
©ナガノ / 2026「映画ちいかわ」製作委員会
公式サイト:https://chiikawa.toho-movie.jp/
公式X(旧Twitter):https://x.com/chiikawa_movie
公式Instagram:https://www.instagram.com/chiikawa_movie
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