『あんぱん』嵩が配属された“宣撫班”とは? やなせたかしの著作から史実を解説

『アンパンマン』の作者・やなせたかしとその妻の暢をモデルにしたNHK連続テレビ小説『あんぱん』が、昭和の時代を生きた主人公たちが体験した「戦争」のエピソードを描き始めた。モデルの人生をなぞるように、高知にいて“銃後の守り”に勤しむのとは違って、軍隊に招集された嵩(北村匠海)は福岡の小倉からやがて中国大陸へと出征し、そこで「宣撫」という任務に就くことになった。後に絵本作家として活躍するやなせにとって、中国での宣撫活動はどのような意味があったのか?
やなせたかしが小倉の野戦重砲兵第6連隊に入隊して、しばらくして下士官となって担当したのが「暗号」の仕事。命令を解読して大隊長に渡すときに、もしも解読を間違えていたら作戦に大きな影響が出ると不安に思っていたことが、やなせの自伝『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)に書かれている。
同書によれば、中国大陸にあって台湾の対岸にあたる福州に出征したやなせは、台湾を攻めるために上陸してくると思われた米軍が来ず、戦闘が始まらない状況で、「たまには宣撫班みたいに紙芝居をつくって村を回っ」ていたという。
『ぼくは戦争はだいきらい ~やなせたかしの平和への思い~』(小学館クリエイティブ)にはもう少し詳しく、宣撫活動のことが書かれている。暗号班の班長だったやなせは、暗号の仕事は部下に任せて宣撫班を手伝うことになった。宣撫とは、敵地に攻め込んで占領した軍隊が、占領下で暮らしている現地の人たちに向かって、日本のことを知ってもらい怖くないよとアピールする宣伝活動のこと。宣撫官という名称を発案した軍人の八木沼丈夫が作詞した「武器なき戦士(宣撫官)の歌」が示しているように、文化や言葉で戦う兵士といったところだろう。
「ぼくは絵が得意ですから、大きな模造紙に絵を描いて、紙芝居をつくることにしました」。すでに中学3年生のとき、新聞に漫画を投稿して10円もの懸賞金をもらっていたことが、『やなせたかし おとうとものがたり』(フレーベル館)に書かれている。この弟が、『あんぱん』では中沢元紀が演じている千尋だ。やなせは10円のうち3円を弟にあげたそうだが、後に千尋に訪れる運命を振り返り、「せめてあのとき五円やればよかった」と悔やむ兄の心情がとても切ない。
話を戻すと、若くして懸賞金を稼ぐほどの漫画の腕前があったことが、宣撫活動での紙芝居作りに大いに発揮されたということだ。『ぼくは戦争はだいきらい』によれば、紙芝居は「双子の兄弟の物語」だったという。別々に暮らしていながら片方が傷つくともう片方が痛みを感じるようになっていて、やがてふたりは兄弟であることを知らず戦うことになるが、そこで自分が相手を殴れば自分も痛いことに気づき、兄弟だということも知って仲良くなるというストーリーだった。
「つまり、これが日本と中国のことなんです。日本と中国は双子の兄弟なんだから、仲良くしなければいけない、というお話です」。違う国から攻めてきた軍隊を地元の人たちは恐れているだろう。敵意を抱いていて当然だ。占領した側も、相手をどこか下に見ていて圧迫を加えることもよく起こる。そうした対立が起きないよう、やなせは『東京朝日新聞』で記者として働いていて、中国で客死した父親の書いた「東亜の存立と日中親善とは双生の関係だ」という文章を元に、相互の融和と理解を促す紙芝居を作った。
これを近隣の農村地帯を回ったところ、「これが大変な人気で、われわれが行くと大群衆が押し寄せて」きたという。理由は「娯楽がないから」で、内容に感銘を受けたからではなさそう。『アンパンマンの遺書』には、通訳が日本の悪口を混ぜて中国語で喋っていたから大受けしたのではといった推測が書かれている。
こうした話をやなせが普通に自伝に盛り込めたのは、彼の宣撫活動が嘘を交えたプロパガンダではなく、目指したい理想を語ったもので、後ろめたさがなかったからかもしれない。1970年に刊行された青江舜二郎の『大日本軍宣撫官~ある青春の記録~』(芙蓉書房)には、宣撫官として中国で活動した軍人たちの証言がまとめられているが、異国に攻め込む戦争に加担した身だからと、証言を渋った元宣撫官もいたという。宣撫とはそれだけ奥深い活動なのだ。
やなせのほうは、ほかに日本軍がアメリカ軍をやっつけているような漫画を民家の壁に描いたという。「あの頃からなんとなく、絵を描いてみんなに楽しんでもらうことに歓びを感じるようになっていたのかもしれません」と『ぼくは戦争はだいきらい』にあるように、後の絵本作家であり舞台にも携わり作詞も手がけたやなせの、マルチなエンターテインメント活動の源流に、中国での宣撫活動が何かしらの影響を及ぼしていると言えそうだ。




















