『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』に詰め込まれた、レオス・カラックスの意志や焦燥

カラックスが『IT’S NOT ME』で表現したこと

 カラックスが自身を投影した俳優ドニ・ラヴァンと作り上げた「アレックス3部作」は、トリュフォーの「アントワーヌ・ドワネル」のシリーズや、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960年)などの、ある意味での語り直しであるが、キャリアの上で、よりパーソナルな方向に向かったカラックスは、自身と作品との境界がきわめて曖昧であり、だからこそ寡作にならざるを得なかった事情がある。

 だから、劇中に挿入されたウラジーミル・プーチンやドナルド・トランプの姿が、戦争の脅威や不寛容の台頭を感じさせたり、難民の窮状が紹介されることで観客をたじろがせながらも、あくまでそれは自身がおぼえた“現象への精神的対峙”でしかないのも確かなことだ。ゴダールがその後“政治”という外部に向かい、映画によって政治運動を実践した過去が、後年の厚みを生み出していたことと比較すると、カラックスの政治・社会への認識、語り口は驚くほど薄く凡庸だと言わざるを得ないところもある。

 ポンピドゥー・センターが映像制作を求める際に質問した、「レオス・カラックス、いま君はどこにいる?」という質問の答えは、「まだずっと、自分のなかにいる」というのが、正直な回答なのかもしれない。それは、過去のジュリエット・ビノシュを映し出したショットが、依然として強い意味を放って本作を支配し、心を打つことからも理解できるところなのではないか。

 彼が自分の殻から外に出るのも、“映画”という媒体を通してである。カラックスは、「人には“まばたき”が必要だ。美はそれを求めている」と、劇中で語っている。映画はスクリーンに投影されるとき、明滅を繰り返しているという。リンゴを1秒間に24回連続で表示させるとき、映画はまさに“またたき”を、その回数分繰り返している。『サンライズ』で主人公を追うカメラの「フォローショット」を紹介し、「重さのある“神の目”」と表現するのもまた、スマートフォンで撮る映像の軽さに対する優位性を示す行為だ。

 そんな古い映画へのノスタルジーやフィルムへのラブレターをしたためながら、本作は幕を閉じようとする。長い時間のなかでカラックスのプライベートから切り離されてきたわれわれ観客は、映画への思いという共通項で、彼とまたしても一部、繋がることができるのである。

 そして最後にカラックスは、自身の名場面の“変奏”場面をサプライズで加えている。これはまさに、往年のロックスターによる、懐かしいヒット曲のアンコールであり、一種のファンサービスだといえるだろう。「カラックスが、そんなことやるんだ」と、誰もが思ったことだろう。しかし一方で、その演者として『アネット』(2021年)の要素を利用し、自身や観客の若い日の衝動を、ある種“死体”の操演として不気味に再表現してみせる試みは、劇中の皮肉な面や虚構性の強調を反映させつつ、レオス・カラックスの父親としての現在のアイデンティティを色濃く感じさせるものだ。

 そこには、彼自身が娘からの影響から、とにかくどこかへ進もうとする意志や焦燥が、確かに表れている。それもまた、彼の若い時代の“あがき”に相当する、現在の彼による屈折した感情の表出なのだろう。本作の象徴的な、水への飛び込みシーンに象徴されるように、それはゴダールの行き着いた運命が示唆する未来への恐怖や、“美の喪失”が進む映画への不安な未来に向けての“ダイブ”だったのかもしれない。この“ファンサ”には、そんなあれこれが詰め込まれていると考えられるのだ。

■公開情報
『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』
ユーロスペースほかにて公開中
出演:ドニ・ラヴァン、カテリーナ・ウスピナ、ナースチャ・ゴルベワ・カラックス
監督:レオス・カラックス
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
配給:ユーロスペース
フランス/42分/2024年/カラー&モノクロ/1.78:1 原題:C’est pas Moi/英題:It’s Not Me
©2024 CG CINÉMA • THÉO FILMS • ARTE FRANCE CINÉMA
公式サイト:eurospace.co.jp/itsnotme/

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