坂元裕二でも免れることのできない掟 『ファーストキス 1ST KISS』にみる“マルチバースの病”

そこで起きたこと――『ファーストキス 1ST KISS』のオープニングとクロージングを締める使者である、「3年予約ぎょうざ」を配達する竹原ピストルと、『いま、会いにゆきます』における10年後にバースデーケーキを届ける松尾スズキは同じであると先ほど述べたばかりだが、マルチバースの病から回復するために、『ファーストキス 1ST KISS』は『いま、会いにゆきます』と同じプレイブックを描くほかはないのである。つまり、『ファーストキス 1ST KISS』の松村北斗が松たか子を残して若死にする前提と、『いま、会いにゆきます』の竹内結子が中村獅童を残して若死にする前提は、同軸上に重ね合わせることができてしまう。
MCUが罹患したマルチバースの病は結局のところ、なんの緊張感もない「なんでもあり」を奨励し、歴代のスパイダーマン俳優を一堂に会させるとか、死んだはずの人物が死んでいないことになっているとか、そのつど作り手のご都合主義的サービス精神をなんの障壁もないまま、超法規的に奨励し、それの引き換えとして、伝統的にハリウッド映画が命綱としてきたストーリーテリングというもののモラルは喪失してしまった。したがって『君の名は。』および『ファーストキス 1ST KISS』の蓋然性回復の試みは、図らずもMCU批判ともなっているだろう。

覆水盆に返らず――いかに受け入れ難い悲劇であろうと、一期一会に観念する。この観念を登場人物に厳しく課してやらねば、物語の語り手はただひたすらモラルを喪失するばかりである。坂元裕二がマルチバースの戯れの落とし前としておこなったことは、盆に返ってしまった覆水を再びあたり一面にぶちまけることである。時をかける症状を治すには、ようするに死ぬべき人が死ぬほかはないのである。デヴィッド・クローネンバーグの『デッドゾーン』(1983年)はひたすら正しく美しかった。ショットとショットがつながることによってストーリーがテリングされ、盆から水がぶちまけられる光景が私たち観客を恐慌へと陥れるからである。「たられば」は「たられば」。映画とは、映画のシナリオとは、マルチバースの禁止そのものにほかならない。それは当代きっての脚本家たる坂元裕二をもってしても免れることのできない掟である。
■公開情報
『ファーストキス 1ST KISS』
全国公開中
出演:松たか子、松村北斗、リリー・フランキー、吉岡里帆、森七菜、YOU、竹原ピストル、松田大輔、和田雅成、鈴木慶一、神野三鈴
脚本:坂元裕二
監督:塚原あゆ子
企画・プロデュース:山田兼司
制作プロダクション:AOI.pro
配給:東宝
©2025「1ST KISS」製作委員会
公式サイト:https://1stkiss-movie.toho.co.jp/
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