アニメ『ブルーロック』の“作画”について考察 日本式リミテッドアニメーションの可能性

『ブルーロック』の2024年
2024年は、金城宗幸原作、ノ村優介作画による異色のデスゲーム風サッカーマンガ『ブルーロック』が注目を集めた。本作は、日本をW杯優勝に導くストライカーを養成すべく、主人公の潔世一をはじめとする全国各地から招集された高校生フォワード選手たちが、「ブルーロック」と呼ばれる監獄風施設の中で日本代表入りの権利を賭けて試合を繰り広げるバトルロイヤル風の物語である。10月から現在、U-20の選手たちと試合をするテレビアニメ第2期『ブルーロック VS. U-20 JAPAN』が放送中。他に、4月19日からはスピンオフの映画『劇場版ブルーロック-EPISODE 凪-』(以下、『-EPISODE 凪-』)が劇場公開。1月、8月にはそれぞれ舞台『ブルーロック』(ブルステ)の2nd STAGE、3rd STAGEも上演された。
そんな『ブルーロック』だが、放送中のテレビアニメ第2期の試合シーンの作画表現が、SNSの一部で「紙芝居」や「パワポ」と呼ばれて話題(ネタ?)になっている。このコラムでは、スポーツする身体とアニメーション表現の関わりや、日本の伝統的なテレビアニメにおける作画表現との関連から、この作画について考えてみたい。
スポーツアニメの現代性
その前に、昨今、本作をはじめとするスポーツアニメが活況を呈している。私はもともと映画批評が専門だが、例えば、今年(2024年)の映画興行成績ランキングでも、『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』が国内歴代35位に達する115億5000万円の驚異の大ヒットを記録した。同様に、昨年は、『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年)が歴代12位の164億6000万円の興行収入を記録し、海外でも熱狂を巻き起こしたことはまだ記憶に新しい。『ブルーロック』にしても、『-EPISODE 凪-』は10月末時点で興行収入18億円、130万人の観客動員数を記録するスマッシュヒットとなっている。
2024年はパリ・オリンピックの年でもあったが、以上のように、バレーボール、バスケットボール、フットボール……といった集団競技(群像劇)の人気スポーツアニメが軒並み好調だ。
最近の記事でも、例えば、ライターの武井保之がこれらスポーツアニメの人気について以下のように分析している。
この2本[注:『TFSD』『劇場版ハイキュー!!』]はそれぞれバスケットボールとバレーボールを題材にしている。スポーツには努力、友情、絆、勝利、涙、チームワーク、集団のなかの個人といった共感性の高い感情を揺さぶる要素がてんこ盛りだ。そのわかりやすさやなじみやすさは、作品ファンに限らず、より幅広い層を劇場へ向かわせている。スポーツ系アニメのヒットはこの先も続くのではないだろうか。(※1)
確かに、武井の指摘する通り、チームの中の人間ドラマ、挫折と葛藤、勝利の感動といったカタルシスを誘う要素がわかりやすく描かれるスポーツは、エンタメの題材としていつの時代も強い。また、私は以前、現代のエンタメやコンテンツ消費は、ある種のパターン化された快、言い換えれば、すでに見たことがあるもの、反復されているものこそが求められるようになっていると指摘した(『新映画論 ポストシネマ』第三章を参照)。同じような見立ては、『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)で稲田豊史なども記している。一定のワクワク感は楽しみたいが、ある程度先の展開も読めて、コスパよくサクサク観たい。それでいうと、試合というゲームの決まったルール上でつねに定型的なドラマが展開されるスポーツものは、その点でも上記のユーザの嗜好を的確に満たしてくれる。ハラハラドキドキと、「だいたいこうなるだろう」というパターンの展開の配分がバランスよく描けるのがスポーツものの試合だからだ。さらに昨今では、集団競技では各キャラクターに人気の声優を配置して、アイドルアニメのように、いわゆる「推し活」的な消費にも対応できる。……というように、スポーツアニメは、現代の文化消費のトレンドへの対応に最適化したコンテンツだと言える。
『ブルーロック』の「パワポ作画」とは
さて、話を戻すと、冒頭でも述べたように、そんなテレビアニメ『ブルーロック』の作画が、「紙芝居」「パワポ」とネタになっている。
確かに、『ブルーロック』の試合シーンは、モーションキャプチャも駆使して実写と見紛う流麗な動きで観客を圧倒した『THE FIRST SLAM DUNKや『ハイキュー!!』と比較すると、キャラクターがほとんど動かない。画面を構成するカットの大半が、運動の一瞬を強調するいわゆる「止め絵」と顔のアップ、(だいたいが横スクロールの)スローモーションだけで構成されていく。このように、複数のプレイヤーの全身像の動きがほとんど作画で見られないために、視聴者は試合全体のプレイヤーの位置関係やフォーメーションを俯瞰的に把握することがかなり難しい。そうした短所を補うために、本作ではところどころで、そうした試合のフォーメーションやプレイヤーの動きを矢印などの抽象的なグラフィックで「解説」したり、プレイヤーがチェスの駒のようなオブジェで置き換えられて描かれる演出がインサートされる(ただ、この表現自体は原作マンガでも出てくる)。なるほど、言い得て妙というか、確かにこうした独特の表現は、まるでパワポのエフェクトが凝らされた解説スライドを見せられているような気分になってくる。
さらに『ブルーロック』の試合シーンでは、とにかくキャラクターたちのモノローグや会話が多いのも、大きな特色だろう。直接的な動きの描写が少ない分、主人公の潔をはじめ、各キャラクターたちの誰も彼もが、自分の言動の思惑、感情を説明するかのような台詞を大量に呟く。その多さは、プレイする中で思わず言葉が出るというより、喋るついでにボール蹴ってるんです、というレベルだ。
こうした『ブルーロック』の作画表現は、『THE FIRST SLAM DUNK』や京都アニメーションの美麗作画アニメのような実写的なハイクオリティの作品や、いわゆる「Web系アニメーター」台頭以降の「神作画」と呼ばれる昨今のジャンプアニメのアクションシーンなどと比較すると、確かに表現的にはどうしても見劣りがしてしまう。特に今年は、3DCGかつフルアニメーションで制作されたテレビアニメ『ガールズバンドクライ』(2024)が注目を集めたこともあり、よけいにその印象が強くなるだろう。
アニメーションと「スポーツする身体」
ただ一方で、『ブルーロック』のこのパワポ作画は、「アニメ(ANIME)」と呼ばれる戦後日本のアニメーション表現のいまに至る帰趨を考えるときに、なかなか興味深いサンプルだと言える。
ところで、もともとスポーツする身体は、アニメーションというジャンル固有の表現を考えるときに、その黎明期から本質的な結びつきを持っている。現代では、映像全般のデジタル化によって実写映像との境目がなくなりつつあるともされるアニメーションだが、本来、現実に存在する被写体を撮影する実写映像とは異なる、このジャンルの大きな特徴は、キャラクターの身体や物体の形状を、現実世界ではありえないくらい自由かつ柔軟に変えられるところにあった。そうしたアニメーションの持つ形状の変形可能性を、アニメーション論では「可塑性」や「原形質性」などと呼ぶ。興味深いのは、20世紀のアニメーションの規範的な作画表現を編み出したディズニースタジオ黄金期の名アニメーターたちが、こうした可塑性を帯びるアニメーション的身体表現の創出に、「スポーツする身体」を参照していたことだ。草創期のディズニーアニメのアニメーターたちは、キャラクターの筋肉や関節の動きを現実よりも誇張して表現する「ストレッチ・アンド・スクウォッシュ」(潰しと伸ばし)という作画上の原則を考案したが、その代表的な人物であるフランク・トーマスとオーリー・ジョンストンは、そうした表現を作り上げるにあたり、スポーツする身体が大いに参考になったことを明かしている。
私たちは新聞のスポーツ欄を見て、今まで見過ごしていた宝の山を発見した。そこには、人間が体の各部位を伸ばし、激しい動きをしながら、ありとあらゆる格好をしている写真があり、それが人体の柔軟性をみごとに示していたのだ。私たちが考えてきたアニメーションの原則は、腕や脚がこぶやふくらみを作ったり、長くまっすぐ伸びたりする中に、はっきり表れていた。肉体的な変形を示す写真のほかに、喜びや苛立ち、集中心など、スポーツの世界にある強烈な感情を選手が全身で伝えている写真もたくさんある。私たちはそういう写真に啓発され、新たな角度からものを観察できるようになった。(『生命を吹き込む魔法』)
ちなみに、そのディズニーアニメからアニメーションの原形質性を見出した映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインも、原形質性の特徴の例の一つとして、「躍動する身体」(ニューヨークの黒人ナイトクラブの「スネーク・ダンサー」の身体)を挙げていた(「ディズニー(抄訳)」、『表象』第7号所収)。