『宙わたる教室』になぜ感動? 多くの学園ドラマが見落としていた“学ぶこと”の素晴らしさ

『宙わたる教室』になぜ感動するのか

 学園ドラマには定番のフォーマットがある。熱血教師でも、冷血教師でもいい。何かしら常識の枠から外れた先生がやってきて、問題児だらけのクラスに風穴を開けていく。ドラマ『宙わたる教室』(NHK総合)も筋書きだけを見れば、このフォーマットにのっとっている。

 主人公である藤竹(窪田正孝)は、研究論文が世界的な学術誌に掲載されるほど優秀な研究者。だが、突然そのキャリアを大きく転換させ、定時制高校の教師となる。目的は今のところ謎。変わり種の先生という意味では歴代の学園ドラマの系譜に連なるものがある。

 そんな藤竹が、定時制高校に通う生徒たちと向き合い、それぞれの抱える問題にかすかな光を照らす。この流れも、王道中の王道。定時制という舞台は特殊だが、過去にも『めだか』(フジテレビ系)や『夜のせんせい』(TBS系)という前例があった。だから、設定が新しいわけでもない。

 なのに、『宙わたる教室』には静かで清新な躍動がある。まるで夜空を眺めているときのように心が落ち着き、しんと冷えた夜の空気を吸い込んだときのように胸の内が浄化される。この瑞々しい感動は何なのか。それは、『宙わたる教室』が「学ぶこと」に主眼を置いた学園ドラマだからだと思う。

 学校とは、何をしにいく場所か。答えは、人によって違うだろう。けれど、ひとつだけ間違いのない答えがあるとしたら、学校は勉強をしにいくところだ。学ぶことの楽しさを知る場所だ。

 だけど、東大合格を目指す『ドラゴン桜』(TBS系)を除けば、既存の学園ドラマのほとんどは「学ぶこと」がおざなりにされてきた。先生は、生徒の信頼を得るために尽力する。だけど、扉を開くきっかけは、おおむね人情という定性的な要素に依存していた。数々の学園ドラマの先生の姿や名台詞を思い出すことはできても、その先生が何の学科を受け持っていたのか、授業で何をしていたのかは、なかなか出てこない。学園ドラマにおいて大切なことは「学校では教えてくれないこと」だった。

 だが、『宙わたる教室』は「学ぶこと」を通じて、人と人が心を通わせ合う。そこに何とも言えない美しさを感じるから、気づけば作品世界にどっぷりと浸ってしまう。

 不良生徒の岳人(小林虎之介)は、読み書きが困難なディスレクシアという学習障害を抱えていた。だが、本人も周囲もそのことに気づけず、彼が勉強ができないのは、彼自身の怠惰や努力不足だと見なされてきた。藤竹によってディスレクシアの可能性があることを指摘されても、岳人自身は過ぎ去った時間への無念とこれまで味わってきた悔しさから、「何も知らないままで良かったんだよ」と拒絶する。

 フィリピン人の母と日本人の父を持つアンジェラ(ガウ)は授業に真面目に参加するものの、なかなか勉強にはついていけていなかった。自分が学校に通う間、娘のレイナ(黒崎レイナ)が代わりに店に立ってくれている。娘の時間を犠牲にしてまで勉強を続ける意味はあるのか。閉店後の店内で教科書を広げるアンジェラは、クラスメイトのマリ(山﨑七海)が巻き込まれた盗難騒動を口実に退学を決意する。

 二人の共通点は、「学ぶこと」をあきらめたこと。萎れた知的好奇心に水をあげたのが、藤竹だった。

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