映画『ブルーピリオド』は“原作への入口”として申し分ない一作 115分で描けることの限界も
“読んでから見るか、見てから読むか”という言葉がだいぶ昔にあったわけだが、その二択に悩むほど原作(小説でも漫画でも)とその映像化(実写、アニメ、あるいはテレビドラマも含む)が相互に高め合うことができている作品はいまどれほどあるのだろうか。
そもそも原作が優れているか流行るかさえしなければ映像化もされないという前提があるにしても、単純に原作への敬意がないものから、原作をそっくりそのままなぞったり、はたまた“そっくりさん大会”になってしまうものまで。その出来に関しては蓋を開けてみないとわからないし、そもそも原作読者のなかに根付いた“イメージ”が強靭であればあるほど、映像化はどんなに出来が良くても受け入れられない難点がある。
とまあ、なぜこんな“作品によって答えがすべて異なる”問いにあえて思い巡らすことになったのかといえば、山口つばさの原作漫画を萩原健太郎監督が実写映画化した『ブルーピリオド』を観たからである。まず誤解を生まないように言っておきたいのは、映画として――というよりは115分の映像作品としてまったくもって申し分のない出来栄えであったし、なにより一つ前の段落で述べた悪い例はひとつも当てはまらないということだ。
夜な夜な渋谷のスポーツバーで友人たちと騒ぎ(テーブルの上にアルコール類が見受けられるが手をつけていないのは、高校生という設定を踏まえたレーティング対策であろう)、学校内でタバコの受け渡しをする素行不良の生徒でありながらも成績は優秀な主人公・矢口八虎。そんな日々に空虚さを感じていた彼は、ある時美術部の先輩・森が描いた絵に魅了され、いつしか絵を描くことに没頭し、美術系大学の最難関ともいわれる東京藝大を目指して突き進んでいく。
“受験もの”――というジャンルが明確にあるのか定かではないが、たとえば大学受験を主眼において2度ドラマ化されている『ドラゴン桜』のように、ある一定の学園ドラマの法則にのっとった教師と生徒の関係でストーリーが運び、受験の合否をゴールに設けるのが典型的であろう。たしかにこの『ブルーピリオド』も実写映画版においては“受験の合否をゴールに設ける”けれど、あくまでも八虎自身の内面のアウトプットへの葛藤が主軸となるため似ても似つかない。ちなみに劇中の大半は八虎のいる“場”で運ぶことになるのだが、終盤でいくつか彼のいない“場”がインサートされる。これに関しては少々浮いて見えることは否めない。
素行不良の青年が周囲を驚かせるほど何かに打ち込み、受験という決戦の舞台に上がる。この映画がよく似ているのは、“受験もの”でも“文化系スポ根”でもなく、まさしく『ロッキー』なのである。二次試験当日に熱に浮かされふらふらになりながらもダウンすることなく受験というリングに立ち続ける。ただしロッキー・バルボアは試合に負けたが、八虎は受験に勝つ。正反対の結末のようにも見えるが、ロッキーは最後までリングに立ち続けることで自分が負け犬ではないことを証明し、八虎は東京藝大に行くことで自分自身の存在を証明する。ロッキーの物語があの後も続いたように、八虎もこの勝負を経て入口に立っただけに過ぎないのである。