『雪山の絆』はアメリカ映画の変革を促す一作に 細部に垣間見えるJ・A・バヨナ監督の意図

『雪山の絆』はアメリカ映画の変革を促す一作

 一方で本作は、信仰よりも互いの精神的な結びつきの方に、よりフォーカスされている。途中で力尽きてしまった者も、助けを呼びに雪山を脱出しようとした者も、ひたすら待ち続けた者も、同じ困難に直面した者同士が、互いを信じることで乗り切ろうとしたことが強調されているのである。

 とくに、みんなに食料を配るために、肉を遺体から切り取るという、最も嫌な役回りを率先しておこなった者に対して、同情的な目を向けているのも特徴的だ。口にするのが誰の遺体か分からないように遺体を細かくして、食べる人たちの心理的負担を軽減するという思いやりを、本作ではとくに評価しているのである。

 このような極限状態での人肉食は、世界中で例がある。日本でも戦時中に飢餓のなかで人肉食に及んだ事例が少なくない。こういった行為は、日本では死体損壊罪にあたる場合があるが、死の危険に瀕するまで飢えた者が、緊急避難的に死体をやむなく食べる行為を、そのような状況に追い込まれたことのない者が、おいそれと責めることはできないだろう。とはいえ、やむなく人肉食に及んだ当事者が、罪の意識にさいなまれてしまうことは想像に難くない。だからこそ、その負担を軽くすることは重要な仕事だったと考えることができる。

 北海道羅臼町でおこった事件の噂をヒントに書かれた物語『ひかりごけ』は、そういった葛藤を文学的問題、哲学的問題にまで広げて見事に表現していた。確かに、対等の権利を持つ存在を命の糧にしていいのかという疑問は、多くの人にとって興味深い題材であるといえる。だが一方で、『ひかりごけ』が発表されたことで、その当事者とされる人物が周囲から責められたといわれているように、それを人類共通の重大なテーマとして、人々の興味を喚起する物語のなかで消費されてしまったことには、違和感をおぼえる部分もある。

 その意味で本作は、必要以上に人肉食の問題を広げず、神学論争や哲学的な議論にも、ことさら繋げようとしていない。それは、生存者たちに近い目線になって、そういう立場に追い込まれてしまった人たちに過剰な内省を促し重圧を与えるべきではないという考えが念頭にあるからなのではないか。

 J・A・バヨナ監督は長年の間、本作の企画をすすめて、資金集めをしていたという。そんな監督のこだわりは、本作をウルグアイの公用語であるスペイン語で撮ることだった。バヨナ監督によると、それなりに予算をかけた作品は、英語でなければ企画が成立しづらいという。英語圏でのヒットが望めなければ、制作費の回収が難しいからだ。実際、『生きてこそ』では英語が使われ、バヨナ監督が災害を題材にした『インポッシブル』も、スペイン人家族の実話を基にしながら、英語を使わなければならなかった。これは伝統的に、アメリカ人が字幕を嫌っていることも影響している。

 日本人が吹き替えや字幕で鑑賞するぶんには、大きな影響はないのかもしれないが、実際に事故に遭った人々が使っていたスペイン語で表現をすることは、とくにスペイン語話者にとって重要な意味があるのと同時に、俳優の多様化にも貢献することに繋がる。その上で、各国の吹き替えが用意されていることで、この話を広く伝えようとする努力も見て取れる。

 スペイン、アメリカ、ウルグアイ、チリによる合作である本作は、監督の意志と、言語を尊重する姿勢によって、より妥当なかたちで、伝えるべきエピソードを世に送り出すことができたといえよう。そしてまた本作は、多様化が進みながらも、言語の点については課題があるアメリカ映画の変革を、さらに促す一助ともなっているのである。このあたりは、より国際的なアプローチを続ける映像配信業者のビジネスモデルとも合致するところがあるといえるだろう。

■配信情報
『雪山の絆』
Netflixにて配信中

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