『WIND BREAKER』は新時代のヤンキー映画 山下幸輝×濱尾ノリタカの“物語”がいい!

『WIND BREAKER』は新時代のヤンキー映画

 映画『WIND BREAKER/ウィンドブレーカー』を観た。いい映画だった。なぜかというと、眼帯をしたヤンキーという普通の実写映画ならかなり浮きそうなビジュアルのキャラクターが出てきてカンフーしたから。もっと言うと、そのような現実離れしたキャラクターが出てきても違和感を覚えないほど画面に馴染んでいたから。もちろん本来だったらそんなわけがない。ヤンキー映画を観ていて、急に眼帯したヤンキーが出てきて、おまけにカンフーしだしたら「馴染んでるなあ」どころじゃない。

 だというのに眼帯ヤンキー──蘇枋隼飛(綱啓永)は眼帯姿でカンフーしたばかりか、レオナルド・ディカプリオを自称した上で特にその背景や眼帯している理由などが語られることなく「なんか普通に強くていい人」なイメージで駆け抜けていく。そして映画を観終わってしばらく経った頃に「なんだったんだあいつ……」となる。思い返しても、奇妙な観賞体験だった。とはいえ、これは相当すごいことをやっているのではないだろうか。

 そもそもどのようにして実写映画に蘇枋隼飛が馴染むという奇跡を実現させたのだろうか? 個人的にはロケーションと美術の力が大きいように感じる。ポップで色彩豊かな商店街に、ヤンキー校にしてはかなり爽やかな緑生い茂る風鈴高校。混沌としながら調和のとれた美しさを持つ獅子頭連の縄張りなど。本作の美術はやりすぎなくらい際立っており、結果としてそれが眼帯したヤンキーが、ひいては漫画原作の(一見)現実離れしたキャラクターを実写の世界に馴染ませることに成功している。

 これは確実に偶然でできるようなことではない。本作の監督を務めた萩原健太郎監督は確固たるヴィジョンを持っており、それが明確だからこそ映画に携わったスタッフたちの確かな技術によってそれが実現されている。ロケーションも美術もキャラクターもそれぞれが際立った個性を持ちながら画としてはむしろ調和のとれたものになっているのは、まさに映画というものが機能していることの証左だろう。

 またシナリオ面でも取捨選択が明確なのがいい。風鈴高校には蘇枋隼飛をはじめ個性豊かなキャラクターが揃っているが、一本の映画として成立させるために桜遥(水上恒司)と、風鈴高校と敵対する獅子頭連の兎耳山丁子(山下幸輝)と十亀条(濱尾ノリタカ)の二人組に物語の焦点を絞っている。他者からの承認を求めるが故に強さで成り上がろうとする桜遥と、成り上がった先で胸に空虚さを抱くようになり、歪な実力主義を徹底するようになった兎耳山丁子は対比されるだけでなく、そもそもの話、獅子頭連二人の物語がすこぶるいい。

 頂点に上り詰めれば自由で楽しくなれると信じて疑わなかった兎耳山が既に手にしていたものに気づかず実力主義に溺れていくさまと、それが間違っていると知りながら兎耳山に向き合えずにいた十亀条の葛藤。この二人のもつれた関係性がとにかく腰を据えて描かれている。これはかなりの英断だったと思う。ともすればキャラクターコンテンツとして味方側の物語に注力しそうなところを、彼らのバックグラウンドがしっかり描かれたことによってクライマックスのアクションが感情の乗った「物語」になっている。

 少なくともラストの桜遥と十亀条のタイマンは、自分が今まで観たヤンキー映画の中で一番爽やかな風を感じるタイマンだった。これは本作における「喧嘩は対話である」という概念が具体的に押し出された形である。このタイマンは、萩原健太郎監督がここを目指して映画『WIND BREAKER/ウィンドブレーカー』を撮ったんじゃないかというくらい素晴らしく、監督が観客に抱いて欲しい感情、感動がそのまま湧き上がってきたような感覚がある。

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる