『ブギウギ』はなぜ“だらしない”人を描く? 理路整然としない朝ドラだからこその強み

『ブギウギ』はなぜ“だらしない”人を描く?

 両親や隣人の愛に育まれ何不自由なく育ってきた福来スズ子(趣里)の波乱な人生がはじまる。朝ドラことNHK連続テレビ小説『ブギウギ』、第4週「ワテ、香川に行くで」では、大好きで尊敬していた先輩・大和礼子(蒼井優)が、労働争議を起こして解雇になり、涙涙の別れがあった。

 礼子を想う橘アオイ(翼和希)までが退団し、梅丸少女歌劇団も代替わりして1年後、劇団の休暇に、団員たちが思い思いに楽しむ計画を立てるなかで(礼子が命がけで勝ち取った休暇ーー労働環境改善であったことが語られる)、スズ子は父母の故郷・香川に出かける。ツヤ(水川あさみ)の実家がお世話になっている次郎丸家の法事に出席するためである。実は、この次郎丸家こそ、スズ子の出生の秘密に関わる場であった。

 スズ子のモデルである笠置シヅ子は養女で、『ブギウギ』でも、この事実を採用している。

 笠置シヅ子の自伝によれば、富農の跡取り息子と女中の間に出来た子供なのだとか。その跡取り息子の法事にスズ子が呼ばれた。真実は明かさない約束だったが、こういうことはとかくわかってしまうもの。スズ子が真実を知ってしまうくだりが、深刻な筋のみにしないで、少しユーモアを交えて描かれたところが『ブギウギ』らしさであろう。

 スズ子がストレートに、ツヤ(水川あさみ)と梅吉(柳葉敏郎)のほんとうの子供ではないことを知ってしまうのではなく、六郎(黒崎煌代)が本当の子ではないと思い込み、大好きな弟をかばおうと奮闘した結果、自分のほうが本当の子供ではなかったと知ったときのほうがショックは大きそうだ。

 なぜ、スズ子は自分は本当の子であると信じて疑わなかったのか。絶対的に愛されていたからだろう。その愛情が、実は本当の子供ではないからこそだったことを、逆に自分が本当の子供だからと捉えていた。あゝ、悲しき勘違いである。

 なんだか皮肉だなと感じるのは、六郎が家族の誰にも似ていないとスズ子が感じていること。当人も父・梅吉に全然似てないことを気にしている。確かに、外見のみならず、他者とコミュニケーションをとることが得意ではないところが、花田家の誰にも似ていない。ツヤも梅吉もスズ子も、社交性があり、話術に長けて明るい。だが、六郎だけは、暗くはないが、他者と対話することを好まず、ひとりで亀と遊ぶことを好んでいる。

 そして、6、7年前の出来事を「このあいだ」と捉えているところも独特で、物事の尺度が、一般常識から外れている。それをスズ子は「あほ」と言う。だが、彼女は、あほなところが好きだと言うのだ。そして、スズ子もまた、自分が養女であるとは思ってもみない、お気楽なあほである。うがった見方をすれば、あほなところも好きと聖人のようなことを言いながら、どこか六郎を自分たちと違うと分けて見ていたともいえる。その欺瞞に悩み苦しむ描写は第5週に果たしてあるだろうか。

 とはいえ、言ってることとやってることがきちっと一貫していないスズ子も愛おしい。

 何もかも理路整然とさせて生きるのは息苦しいし、実際、そんな人はいないとおもうのだ。

 ところが、朝ドラでは、理路整然としたものが好まれる。基本、良妻賢母にして手に職もある、優れた女性のためのドラマなのだろう。あほなひとやだらしないひとは好まれない。だが、昨今は、多様性の名の下に、他者に敬遠される言動をする人物に、でもいい面もある、というような描き方をする。知らないところでいいことをしているとか、本心は違うとか、そういうふうに描く。だが『ブギウギ』はそうではない。あほなところ、だめなところがその人の魅力であるとする。

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