『フローラとマックス』は“名作”と呼べる愛すべき一作に 音楽に対する普遍的かつ深い理解

『フローラとマックス』が証明した音楽の力

 印象的なのは、フローラがジェフに勧められ、ジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now(青春の光と影)」を聴いて涙を流す場面だ。この曲は、アカデミー賞作品賞に輝いた『コーダ あいのうた』(2021年)でも使用されていて、「いまは両側から愛を見ている」という歌詞が、ろう者の親を持つ聴者の子どものことを指す「CODA(コーダ)」という立場を象徴していた。本作ではそれが、若いときに抱いていた理想と、現実に対する幻滅という、フローラの人生を表すものとなっている。

 ジョニ・ミッチェルの歌に心を奪われ、演奏や歌唱、作曲や歌詞を書く行為が自分の人生と深い繋がりを持つ場合があることを感じたフローラは、息子のマックスもまた、音楽が人生の救いになっているということに気づき始める。その経験が、マックスがある事態に陥ったとき、音楽と離れることがないように、できるだけのことをしようという努力へと繋がっていく。

 そしてフローラ、マックス、ジェフや元夫のイアンなどの人生は、有機的に変化しながら、一つの楽曲「High Life」へと結実していくのだった。それぞれの経験や技術が、一人では作れなかった曲を生み出し、一人では感じることのできなかった世界の扉を開いて、それぞれの人生にいろどりを与えていく。フローラがかつて理想を抱き求めていた「High Life(豊かな生活)」が、一つの曲に象徴され実現するクライマックスは胸を打つものがある。この「High Life」、今後の映画賞での主題歌賞獲得に期待したいところだ。

 そしてフローラたちの姿を追っていたカメラは、演奏されている店の人々の姿をパーソナルに映し出しながら、夜の街へと飛び出し、空中へと浮遊していく。音楽がミュージシャン同士を結びつけ、お互いを変化させることができるのるのなら、それを聴く人々をも結びつけ、心を動かし、世界を変えていくこともできるのかもしれない。そんなことを感じさせる演出である。

 18世紀、アイルランドの哲学者で、「存在とは知覚である」と主張していたジョージ・バークリーは、かつてこんな問いかけをした。「誰もいない森で木が倒れた。音はしますか?」と。“音”というものは、それを聴く人がいて、はじめて存在するといえるのではないか。そのように考えるのならば、音楽もまた、理解し得る人がそれを聴き、何かを感じることで、空気の振動の組み合わせでしかないものから音楽へと変わるのではないか。

 本作は、フローラが息子やジェフらとセッションする場面だったり、ジョニ・ミッチェルの歌に心を動かされる彼女の表情の移り変わりに代表されるように、音楽というものが人と人との繋がりであり、それを歌い演奏し、または聴く人々の心の状態だと言っているように感じられる。それは、あくまで人を中心とした哲学的ともいえる考え方を、ある意味で作品全体を通して証明しているということなのかもしれない。

 このような音楽に対する普遍的かつ深い理解への到達というのは、映画という視覚的でもあるアプローチで音楽に向き合ってきたジョン・カーニーならではの境地といえるのではないだろうか。

参照

※1. https://variety.com/2023/film/festivals/flora-and-son-sells-sundance-1235498760/
※2. https://nme-jp.com/news/125503/

■配信情報
『フローラとマックス』
Apple TV+にて配信中
画像提供:Apple TV+

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