『らんまん』寿恵子はなぜ万太郎を心から愛したのか 最終週前に描く意義があった関東大震災
クライマックス目前。NHK連続テレビ小説『らんまん』第25週「ムラサキカタバミ」では万太郎(神木隆之介)に大きな試練が……。大正12年、いよいよ念願の植物図鑑を出版する運びとなり、万太郎が印刷所に直接、原稿や図版を持って行こうと準備しているとき、関東大震災が起きた。
大きな揺れによって建物は崩壊、近隣で火災も発生し、避難せざるを得なくなるが、万太郎は何はなくとも標本を救おうと、ありったけを背負子に乗せて、寿恵子(浜辺美波)の提案で渋谷に向かう。
幸い、渋谷は被害が少なく、槙野一家は「山桃」の店舗を仮住まいとする。子供たちは全員無事だった。一方、図鑑用の原稿はほぼ灰と化し、40年間かけて集めてきた標本も……。だが、万太郎は、焼けた十徳長屋に咲いていたムラサキカタバミに力づけられ、再び標本を作り、原稿を書く意欲を決して失わない。寿恵子は万太郎のために、渋谷の土地を売り練馬の大泉に広い土地を購入する。
ともすれば、どんな試練にあっても夢を捨てない!という、がむしゃら熱血ど根性ものになってしまいそうな展開ながら、寿恵子があくまでも万太郎に惚れ込んでいて、万太郎もまた、寿恵子の存在に支えられてここまで来たという、夫婦の愛情表現が挿入される。神木隆之介と浜辺美波の演技にしっとりした情感が伴う。年齢を経るほどに、寿恵子が万太郎の肩にもたれて語り合う場面が増えていて、これがなかなか絵になるのだ。
関東大震災は、朝ドラで、戦争ほどではないながらおりにつけ描かれてきた。『おしん』『あぐり』『花子とアン』『ごちそうさん』『わろてんか』などで、どれも主人公の試練や喪失、大きな転換期となる。たいてい、主人公や身近な人物の大切なひとが亡くなり、しばし悲しい空気が流れるのだが、『らんまん』では、皆、無事であった。標本という最も大切なものが失われるが、植物はたくましく生き続け、再生する象徴となる。
『らんまん』の震災では人は死なないものの、揺れや被害の様子は時間をかけて描写された。しかも、当時の世相が随所に入れてあって、無政府主義者を憲兵隊大尉が殺害した甘粕事件のことも、新聞記者である次男・大喜(木村風太)の口から語らせている。また、万太郎が上京当時、大変お世話になった神田の大畑印刷工場の大畑(奥田瑛二)が、元火消しの矜持に則り、逃げずに火消し作業を行うエピソードは、実際に、神田和泉町と佐久間町が市民の力で延焼を食い止めた話に基づいたものである。
関東大震災のときどんなことが起きたのか、美談も問題な出来事も並列である。江戸時代、海に近い地域が埋め立てられて城下町としてにぎわった江戸。明治維新が起こり、江戸幕府がなくなっても、都市機能は残ったままで、中心だった場所が、震災によって大きな被害を受けた。一方、開発が進まず、田舎とみなされていた渋谷は被害が少なく、震災で焼け出された人々が一斉に流れてきたことで、急速に発展し、現在のように都市機能が渋谷や新宿に分散していくきっかけになった。
早くから渋谷に目をつけていた実業家・相島(森岡龍)は、いささか不謹慎と思いながらも「旧幕時代の江戸を一新し、世界の一等国として生まれ変わるんです」と喜ぶ。相島は、渋谷を発展させた実業家・五島慶太を思わせる人物だ。五島は農家に生まれ、実業家として財を成した。岩崎弥之助(皆川猿時)などと同じ、旧幕時代の武士の家系とは関係なく、のし上がってきた新勢力であるから、未だに残る江戸を中心にした世の中を刷新することは願ったりかなったりであっただろう。