『バービー』はなぜ大衆の支持を獲得したのか 21世紀のアニメーションと共通する要素も
『バービー』の「明るい画面」の現代性
ただ、個人的な見立てとしては、『バービー』はそんな「単純」な映画にはなっていないと思う。ちなみに、これは本作を肯定的に評価しているという意味では必ずしもない。むしろ率直に言えば、私にとっては、『バービー』は、あまり才気の感じられない退屈な映画だった。しかし、それでも語るべきことはあって、実際に、私の関心はもう少し別のところにある。そして、以上の「政治的」な要素(だけ)が、今回の本国での記録的な大ヒットに結びついているとも思えないのだ。
そこで、『バービー』の別の要素についても見てみよう。『バービー』は、上記のような物語やテーマのみならず、映像表現や演出のスタイルにおいても今日の趨勢にみごとに棹差す映画にできあがっている。
まず、本作は私の言う「明るい画面」の映画である。「明るい画面」という概念とその現代映画における意味について詳細は、拙著『明るい映画、暗い映画』(blueprint)の議論を参照していただきたいが、ごく簡単にまとめると、いわゆる「インスタ映え」のデジタル写真を思い起こさせる、鮮やかな蛍光色による明るさがフラットに画面の隅々をのっぺりと覆い、ある種の「深さ」や「奥行き」が消失した、一部の現代映画に見られる画面のことである。それはメディア論的に言えば、映画館のスクリーンではなく、デスクトップのインターフェイスやスマートフォンやタブレットのタッチパネルの性質に適合した画面だ。デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督『アンダー・ザ・シルバーレイク』(2018年)、アリ・アスター監督『ミッド・サマー』(2019年)、トレイ・エドワード・シュルツ監督『WAVES/ウェイブス』(2019年)、エドガー・ライト監督『ラストナイト・イン・ソーホー』(2021年)……近年の新世代監督たちの作る話題作に共通するこの「明るい画面」の系譜に、『バービー』も確実に含めることができる。
また、『バービー』ではバービーランドで、バービーやケンたちが歌って踊る「音楽映画」としての要素もある。そして、グラミー賞受賞のマーク・ロンソンがプロデュースを手掛けたその「プレイリスト」には、ニッキー・ミナージュやアイス・スパイス、ビリー・アイリッシュ、フィフティ・フィフティといった人気アーティストが多数参加している。こうした点も、「プレイリストムービー」とまで呼ばれた『WAVES/ウェイブス』などとコンセプトがよく似ている。結論を言えば、『バービー』は、私が「ポストシネマ」と呼ぶ、デジタル化やプラットフォームとの結びつきを前提にした21世紀の新しい映画の形を踏襲している作品なのだ。
そして、ここで重要になるのが、次の2点である。一つは、そのデジタル的な「明るい画面」の性質とも密接に関連した、本作のイメージの過剰な表層性や軽薄さである。また、もう一つは、これもデジタル性と結びついた非人間的な「モノ」の問題、そう、本作の登場人物たちが人間ではない人形であることの問題である。
能天気な平板さや虚構性が意味するもの
一つ目の論点から見よう。
『バービー』を観れば一目瞭然だが、本作は「明るい画面」に加えて、とりわけバービーランドのシーンでは、全体がウェス・アンダーソンや大林宣彦の映画も思わせる、ショッキングピンクを基調にしたカラフルな色調で、舞台の書き割り、あるいはミニチュアかドールハウスのような極端に遠近感や動きを欠いた風景が配置されている。ケンがサーフボードを抱えて飛び込もうとする海の波も、固まった舞台セットである。その平面的な背景をバックに動き回るバービーたちも、まさに人形のような物体感をことさらに強調されている。
例えば、本作でプロダクションデザイナーを務めたサラ・グリーンウッドによれば、監督のガーウィグからは世界観の参考として、ヴィクター・フレミング監督の名作『オズの魔法使』(1939年)を提示されたという。そのため、『バービー』では実際に作中でも『オズの魔法使』がオマージュ的に引用されるが、この『オズの魔法使』は、同じ平板な書き割り的画面を作った大林宣彦監督の『HOUSE ハウス』(1977年)でもやはり目配せされている。ちなみに、大林もまた、『HOUSE ハウス』や『時をかける少女』(1983年)などの多くの作品で、人形などのモノがファンタジックに動き出し、人間たちと交渉する様子が描かれるし、また、初期の大林映画のスタイルは映画批評でしばしば「オモチャ箱」と形容された。
ともあれ、いわゆるポストメディウム的な「映像の魔術師」と呼ばれ、「明るい画面」を持った大林の作品群が、デジタル映像や、映画以外のさまざまな映像媒体、ポップカルチャーにも馴染み深いものであったのと同様に、『バービー』のこの平板で虚構性の高いセノグラフィ(舞台構成)もまた、先ほど示したような21世紀的なポストシネマ性と通底していることは明らかである。
しかもその時重要なのは、『バービー』の場合、そうした画面上の平板さや虚構性が、物語叙述の面においても形式的に重なっていることだ。どういうことかといえば、『バービー』では、シリアスになりがちな展開の際に、それをすかさず脱臼してみせるようなアイロニーやくだらないギャグ、下ネタ、楽屋落ち、メタフィクション的趣向などが所狭しとちりばめられているのだ。とりもなおさず、このようにすべてを茶化し、陽気に陳腐化し、相対化してみせる『バービー』のこのノリこそ、まさにその表層的で平板な画面のスタイルとも呼応する形において、この作品の本質ではないか。
それゆえに、本稿の冒頭で整理した、本作にまつわるポリティカルな解釈も、おそらくそれをダイレクトに受け取るべきではないのだろう。ガーウィグの『バービー』は、「#MeToo」以降の「フェミニズム映画」で描かれる、女性のエンパワーメント物語やステレオタイプ批判そのものを絶えずはぐらかし、能天気なあのショッキングピンクですべてを塗り潰す。それは、同じ「有害な男らしさ」を描いていても、やはり『パワー・オブ・ザ・ドッグ』とは明らかに異なる。『バービー』の真の「批評性」はここにこそ宿っているのではないか。
そして、その点こそが、今回の大ヒットのように、他の映画との差別化要因になっている可能性はある。よく知られるように、近年の映画では、マーベル映画(MCU)やディズニー/ピクサーを筆頭に、作中のメインキャラクターには必ずマイノリティの俳優が配置されるというアファーマティヴアクションが徹底され、また物語もポリティカルコレクトネスやバリアフリーが効きまくった設定や展開が自明のものになってきている。ただ、日本の観客も含めて、そうした趨勢にある種の「息苦しさ」を感じる人々が増えてきていることも、また確かだ。例えば、『バービー』が今年の北米興収を抜いたという『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の予想外の(?)成功の一因も、そうしたディズニー/ピクサー的な「正しさ」の表象を排して、徹底したエンタメ志向のファミリームービーに振り切ったからだという分析も一部にある(もっとも、『スーパーマリオ』にせよ、主人公のマリオ兄弟がイタリア移民の一家だったり、今日的な設定はある。だが、あの作品のある種の「軽薄さ」「純朴さ」も、つねに斜に構えたセンスが売りのイルミネーション作品としては、やはり異質であった)。
個人的には、この『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』のような「ズラし」が、『バービー』にも感じられる。
『バービー』における「モノ」の問題
ただ、『バービー』において最も関心を惹かれた要素は、さらにその先にある。それが二つ目の、まさにバービーたちが「人形」であることに由来する、「モノ」=ガジェットの表象をめぐる問題である。
『バービー』において「モノ」の位相が重要な主題をなすことは、作品のオープニングで早速示唆される。本作の冒頭シーンでは、人類創世を思わせる太古の昔、小さな女の子たちは、世界中どこでも赤ちゃんの人形を大事な玩具として扱ってきた。それがある時、巨大な大人の女性のバービー人形が彼女たちの前に現れる。バービーを見た女の子たちは、手に持っていた人形を破壊し、上空に投げる。つまり、彼女たちは「母として」人形に接するのではなく、「理想化されたステレオタイプの女性像」を着せ替えて遊ぶという新たなガールズカルチャーの価値観を手に入れたのだ、という架空のエピソードが描かれる。これは、1959年のバービー人形誕生によって現実に起こった「バービー神話」をかなり誇張して作られた話だが、一目で明らかなように、このシーンはスタンリー・キューブリック監督の傑作『2001年宇宙の旅』(1968年)の映画史上、あまりに有名なオープニングシーンのパロディになっている。太古の原人が宇宙から来た謎の物体「モノリス」に遭遇して、手に持っていた骨を高々と空に投げるというあのシーンだ。
ガーウィグとバームバックが脚本で敷いたこの文脈で重要なのは、『2001年宇宙の旅』のこのシーンが、やはり人間にとっての「モノ」の位相を寓意的に描いた場面だとみなしうるからである。そして、それは『バービー』のパロディシーンにも共通する。つまり、当初の骨や赤ちゃん人形を使って遊んでいた原人や女の子たちは、ラカン派精神分析の術語を用いれば、いまだ言葉のない、想像的な意味の世界を生きている。母と子どもが一体の未分化な状態だ。精神分析の描き出す成熟のプロセスでは、通常は、そこに「父的なもの」=象徴秩序が介入することによって、ひとは言語を用いる社会的領域に参入し、主体=大人になる。ただ、彼らの目の前に突如出現したモノリスやバービー人形というのは、そうした象徴的な言語の世界(象徴界)からは除外されたリアルで不気味な「モノ」としてあるといえる。フランスの精神分析学者ラカンで言えば、「現実界」に属するシニフィアン(ファルス)、哲学者のカントならばまさに「物自体(Ding an sich)」と呼ぶ存在だ(フロイトもカントを踏まえて、これを「モノ」と呼ぶ)。つまり、この冒頭のシーンは、この映画においてはあくまでもこの「モノ」が重要なテーマをなすのだということを観客に暗示している。
アニメーションと(しての)『バービー』
いずれにしても、この映画の主人公は、非人間的なオブジェクトとしての「人形」が、アニミスティックに動く物語なのである。ここで重要になってくるのが、やはり「アニメーション」という映像ジャンルとの関わりだろう。アニメーションとは、もとよりアニミズムという言葉をルーツとしているように、人形も含めたさまざまな無機物(モノ)に生命を宿すような映像技法である。そして、『バービー』は、実写映画というよりは、むしろ21世紀になって現れた、さまざまなアニメーションの世界の文脈と馴染み深い映画になっている。
例えば、本作の物語世界が、通常の人間の世界と、人形やアニメーションのようなノンヒューマンの世界に分かれ、主人公がその間を往還するという構成になっているのは、ディズニーの『魔法にかけられて』(2007年)やアリ・フォルマン監督の『コングレス未来学会議』(2013年)といった話題作を自然に髣髴とさせる(広い荒野をオープンカーで疾走するシーンなどはいかにも『コングレス未来学会議』を思い出させる)。
さらに興味深いのは、この作品でバービーランドに住む人形たちが、女性ならばほとんど「バービー」、男性ならばほとんど「ケン」というまったく同じ名前をあてがわれている点だ。つまり、『バービー』において、主人公を含む多くのキャラクターたちは、人間のような固有のアイデンティティを剥奪され、いくらでも置き換え可能で、匿名的な存在の群れにフラットに還元されている。こうした表現はもちろん、彼ら彼女たちが「モノ」=ノンヒューマン・エージェンシーであることを観客に向けて強調するのに役立っているが、他方で、デジタル化した21世紀のアニメーションの特徴とも符合する要素がある。
例えば、土居伸彰は、こうした表現について、『君の名は。』(2016年)やドン・ハーツフェルトなどの多様な作品を具体例として挙げながら、「私たち化」という用語で、21世紀アニメーションの大きな特徴だと指摘している(『21世紀のアニメーションがわかる本』)。拙著『新映画論 ポストシネマ』(ゲンロン)では、この土居の「私たち化」の考え方を、クリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』(2017年)などに当てはめたように、これは近年の実写映画でも見られる傾向である。ともあれ、その意味では『バービー』のバービーやケンもきわめて「私たち化」したアクターとして描かれているのだ。
ただ、本作では――ここがいかにもアメリカ映画らしい感性だと思うが――ラストで、そんな「モノ」であるはずのバービーが人間化=主体化することで幕を閉じる。「私たち化」していたバービーは、「バーバラ・ハンドラー」という名前=アイデンティティを持った「主体」となり、婦人科を受診する(セクシュアリティを持った「人間」になる)。ここには、人間=主体として自律することが重要だという近代以来の西欧的な価値観がはっきりと垣間見える。このラストは、例えば、(表面的には裏腹でも)やはり人間化したモノ=オモチャの自律を描いて終わった『トイ・ストーリー4』(2019年)と本質的にはよく似ている。
だが、この結論は、個人的にはいささか安直に思えた。「モノがめでたく人間になりました」という展開よりも、言うなれば「モノ」が「モノ」として肯定されたまま人間の世界を生きていく、そんなフェミニズム(?)映画のほうが、本作のモティーフに対して、より整合的で、魅力的になったのではないか。この「モノ」としての複数性や多様性を描くことが、この映画の可能性をより開くことになったような気がする。
先にも述べたように、『バービー』は、矛盾も抱え込み、個々のモティーフもうまくまとまっているとは言い難い。しかしだからこそ、ここで考えてきたような、さまざまな問いを誘発する「豊かさ」も含み持っている。
参照
https://www.boxofficemojo.com/chart/top_lifetime_gross/
■公開情報
映画『バービー』
全国公開中
出演:マーゴット・ロビー、ライアン・ゴズリング、ウィル・フェレル、シム・リウ、デュア・リパ、ヘレン・ミレン
監督・脚本:グレタ・ガーウィグ
脚本:ノア・バームバック
配給:ワーナー・ブラザース映画
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