『バービー』は娯楽大作かつ現代を代表する圧倒的な映画に 作品に込められた強度と信念

『バービー』が度肝を抜く一作になった理由

 映画『バービー』と『Oppenheimer(原題)』を同日に観るというネットミーム「バーベンハイマー」がアメリカで流行し、本国の『バービー』SNS公式アカウントが核兵器が使用されたビジュアルを面白がるような非公式ポスターに賛意を示してしまった件が、日本国内で小さくない物議を醸すこととなった。これは唯一の戦争被ばく国である日本で作品を楽しみにしていて、核兵器の被害にも心を痛める観客たちにとって、残念なことだったといえるだろう。

 作品の製作者たちは宣伝の過失には直接関係がなく、ワーナー・ブラザースが現時点でメディアを通じて謝罪し、幹部が来日して謝罪するという対応をとったとはいえ、この件でストレスを感じたり対応に不信感を覚えた観客が鑑賞しない選択をとることは、もちろん尊重されるべきだ。その上で主張したいのは、本作『バービー』が、娯楽大作として公開されながら、現代を代表する圧倒的な映画だったということだ。ここでは、映画『バービー』そのものが、いかに凄いのか、そして現代に生きる観客たちになぜ観てもらいたいのかを解説していきたい。

 そう、『バービー』は、とんでもない強度と信念が込められた作品だったのだ。『レディ・バード』(2017年)を手がけ、数々の印象的な演技でも知られているグレタ・ガーウィグ監督が、意外にも本作のようなメジャー大作を撮るということで、一筋縄ではいかないものに仕上がってくることは予想されていた。しかし、まさかこれほど高度な内容になるとは……。まさに度肝を抜く一作である。

 本作の内容を十分に理解するためには、まず「バービー」という人形が、主にアメリカで社会的にどのような意味があり、何を与えることになったのかを、時代に分けて知る必要がある。日本の観客が本作を理解しにくい面があるとすれば、ここがまず問題になってくるのかもしれない。

 本作冒頭で、『2001年宇宙の旅』(1968年)のパロディによって示されたのが、1959年よりバービーが燦然と輝きながら市場に現れたという、当時のインパクトである。まさに知恵を持たない猿人が巨大な石板“モノリス”によって爆発的な進化を遂げたように、バービーはアメリカの女の子たちの多くに決定的な影響を及ぼすことになるのである。それまで主流のおもちゃだった赤ちゃん人形は、女性が子どもの面倒を見るという役割をより固定化することに繋がる面もあったと考えられる。女の子たちは、新たに自分自身の将来の憧れを、魅力的な衣装を身にまとったバービーに見出すこととなったのだ。

 しかし、本作でマーゴット・ロビーが演じる、ブロンドで白人、細身のファッションモデルのような“典型的”なタイプのバービーが劇中で、夢の国バービーランドから現実のアメリカ社会に現れたとき、現在の女子学生たちからは女性差別的な表象の代表として糾弾されることになるのである。これは、どういうことなのだろうか。

 この状況は、アメリカのTVアニメ『ザ・シンプソンズ』の1994年のエピソード「キャスリーン・ターナーの人形(“Lisa vs. Malibu Stacy”)」を観ると、よく理解できるのではないか。世の中に問題意識を持たず、友人たちやボーイフレンドとともにパーティーを日夜繰り返しているようなイメージが投影された人形が、それで遊ぶ子どもたちの女性観や、未来への憧れを限定してしまうのではないかという、フェミニズム的な問いかけが、そのエピソードでなされたのだ。かつて変革を起こしたバービーは、いつの間にか女の子たちの興味を狭める保守的な考え方を補強してしまっていたということになる。

 だが、現在はまた状況が変化してきている。バービーを制作、販売しているマテル社は、いろいろな人種や体型のバービー、車椅子に乗ったバービーや義肢を装着したバービーなど、近年多様な能力や特徴、役割を持った、さまざまなタイプを新たに送り出してきている。その意味では、現在バービー人形は、多様性が尊重される時代に対応し、リードする部分を持ったシリーズに変貌を遂げてきているのである。

 つまりバービーは、ディズニープリンセスがそうであるように、現在までにおいて、部分的に先進的であり、部分的に保守的なイメージが持たれる存在であるということなのだ。だからこそ、本作ではときに古いものの代表として扱われ、同時に新しいものとしても表現されているのである。このように、バービーのイメージが変化してきた三つの時代をそれぞれ理解して切り分けていけば、劇中で起こるいざこざや論点が整理できてくるはずだ。

 そのなかで、マーゴット・ロビーが演じる“典型的”バービーは、古くから愛されているタイプであるからこそ、古い時代の象徴に見えてしまうところもある。そしてそれは、映画界にも共通する感覚なのではないか。これまでアメリカ映画の現場では、有色人種のキャストを段階的に受け入れていきながらも、白人ばかりが脚光を浴び、大きな役を独占する場合が非常に多かった。言うまでもなく、構造的な人種差別が存在するからである。また同時に、女性が超大作映画を監督するケースも非常に少なかったといえる。

 だが、パティ・ジェンキンス監督が世界的大ヒットを成し遂げた『ワンダーウーマン』(2017年)、ほぼアフリカ系キャストによって占められた『ブラックパンサー』(2018年)が世界的大ヒットを達成して以降、最も売れる大きなバジェットの超大作において、女性たちや有色人種が中心になり得る時代が到来したのだ。本作『バービー』もまた、女性監督による映画として、現時点で世界興収10億ドルを突破し、さらに未来の可能性を広げる一作となっている。

 そんな時代に、白人のスターが演じる“典型的”なバービーという存在に、どのような可能性が残されているのか……そこが一つの焦点となっているといえるのだ。それがこれまでのハリウッド映画のようなスタイルであるだけに、「ホワイト・フェミニズム」だといった指摘も一部では見られるようだが、そういった視点に対するガーウィグ監督の答えこそ、この問題を考え抜いただろう本作の核心といえるものだ。それを説明する前に、本作の舞台の一つとなる「バービーランド」について触れておきたい。

 「バービーランド」とは、無数のバービーや、ボーイフレンドのケン、その他いくつかの、マテル社がいままでに送り出した人形のキャラクターたちで占められる夢の国だ。それは女の子たちの共通意識の投影であると考えられ、バービーが最も輝き、実権を握る政治体制までが敷かれているといった設定で表現されている。

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