『怪物』には“繋がりたい”と思う願いが込められている 坂元裕二が描き続ける孤独な人

『怪物』に込められた願い

「たった一人の孤独な人のために書きました」

 坂元裕二は、第76回カンヌ国際映画祭で自身が手掛けた映画『怪物』が脚本賞を受賞した後、監督である是枝裕和を通して、そうコメントした。是枝裕和が監督し、坂元裕二が脚本を、坂本龍一が音楽を手掛けた映画『怪物』は、カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。

 予告で流れる「怪物、だーれだ」というキャッチーなフレーズに導かれるように、つい安易に「怪物」探しをしてしまいがちな本作は、もちろんその言葉通り、登場人物各々の内側に潜む「怪物」、つまりは無自覚な、あるいは無邪気な加害性に気づかせる作品である。でも、それと同時に、坂元の言葉通り、また、多くの優れた映画がそうであるように、無数の「たった一人の孤独な人のため」の映画であると思う。テレビドラマ作品含め、坂元裕二作品は、これまでもずっと「たった一人の孤独な人」の味方だった。本稿は、坂元裕二脚本が描いた、孤独な人々の物語としての『怪物』についての分析である。

 一見、世界は得体の知れない怪物たちで溢れている。本作序盤に描かれる早織(安藤サクラ)の視点から見つめる世界は、まさにそんな「血の通っていない現代社会」の図である。息子・湊(黒川想矢)が担任教師の保利(永山瑛太)に暴力を振るわれたと学校に抗議に行った早織は、通り一遍の返答しかしない校長・伏見(田中裕子)と教師たちに憤る。だが、その後保利、伏見、湊、それぞれの視点から見た、同時期に起きた出来事が繰り返されることで、まるで、それまで世界を覆っていた皮膜がゆっくりと剥がれていき、本当の世界が見えてくるように、事件の全貌と、彼らの実像が明らかになっていく。

 早織は、一生懸命「白線からはみ出さないように」生きている人だ。息子・湊が幼い頃に考え、彼自身はとっくに興ざめしている「白線はみ出したら地獄」ゲームを彼女だけが妙にこだわって続けているように。だから少年たちの神聖な遊びを、気づかず「正して」しまう人物でもある。坂元による決定稿をもとにしたオリジナルシナリオ(『怪物』/発行:株式会社ムービーウォーカー/発売:KADOKAWA)において、早織が、足の水虫に悩んでいたり、靴下に穴が開いていることに気づいて落ち着かなくなったりするなど、やたら足元を気にする存在として描かれているのも興味深い。対岸の火事に大盛り上がりする一方で、自分自身の足元の綻びがちょっとしたことで顔を出すのを、何とか取り繕って生きている人。そんな彼女の姿が浮き彫りになってくる。

 それに続く保利視点の物語の冒頭は、恋人・広奈(高畑充希)に向かって理屈っぽく語り続ける彼の語り口だけで、坂元裕二作品のファンをつかの間ホッとさせることだろう。『最高の離婚』(フジテレビ系)の光生(瑛太)や『カルテット』(TBS系)の家森(高橋一生)といったおなじみの、少し屈折した、愛すべき坂元作品の登場人物たちと共通するキャラクターであることが見て取れるからだ。そんな保利の物語は、何かと「男らしく」と口走ってしまう彼の無自覚な罪の話であり、異なる場面における台詞の一致が伝える、湊と依里(柊木陽太)との決定的な違いを示した物語でもある。

 例えば、シングルマザーとしての自身の至らなさを気にする早織を気遣った湊の「僕はかわいそうじゃないよ」という言葉にほどなくして呼応するような、保利の「僕はかわいそうじゃないよ」が、片や繊細な思いやりとして、片や粗雑な比喩として、全く異なる意味合いで対比的に使われること。あるいは、広奈と夜景を巡る議論をする時の「見渡す限り無数に並んだ電球、好き?」という言葉が、終盤、電球を身に纏うようにして、嬉々としてそれを飾り付けする湊と依里(柊木陽太)の2人の姿とは対照的な言葉としていつまでも残ること。でもそれと同時に、この残酷な「対」の物語は、彼の悲劇性をも詳らかにする。少年たちは、靴を片方なくしたら、もう一人の一足の靴を二人で分け合い、ケンケンで遊び、その楽しい思い出をいつまでも反芻することができる。でも、追い詰められた先の屋上でいつの間にか片方靴をなくしてしまっている保利に、自分の靴の片方を差し出してくれる人は存在しないのである。

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