『怪物』を観た後に残った違和感を考える “わかりやすさ”と引き換えに手放したのもの

『怪物』の違和感を考える

 流れてくるエンドロールの文字を見て、「なるほど」「やっぱり」と妙に腑に落ちる思いがした。これは、第76回カンヌ国際映画祭の最優秀脚本賞、クィア・パルム賞を受賞したことでも話題の、大ヒット中の映画『怪物』を観終えたときの第一印象だ。

 監督はご存知、『そして父になる』(2013年)で第66回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞、『万引き家族』(2018年)ではカンヌ最高賞のパルムドールを受賞した是枝裕和。第1作の『幻の光』(1995年)を除き、これまで全てのシナリオが自作だったことでも知られる是枝監督が、他者のシナリオを映画化することでも、発表当初より注目されていた。

 しかも、そのシナリオが『東京ラブストーリー』(1991年/フジテレビ系)などの往年の名作から近年の『カルテット』(2017年/TBS系)『大豆田とわ子と三人の元夫』(2021年/カンテレ・フジテレビ系)、映画『花束みたいな恋をした』(2021年)に至るまで、時代に応じてヒット作を次々に生み出してきた坂元裕二の手によるものという時点で、絶対に観るべき作品と心に決めた人も多かったことだろう。

 片や映画で、片やドラマで、発表の媒体やスタイルは異なるものの、犯罪加害者やネグレクト、貧困、疑似家族など、これまで描いてきた社会的テーマが近似している両者は、おそらくパートナーとして好相性のはずだ。そんな2人がタッグを組むことで、どんな化学変化が起こるのだろうか。

 そんな期待を抱きつつ、情報を極力事前に入れないようにして足を運んだ公開初日。実際に観ても、相性の良さは間違いないと感じたし、非常に良く出来た作品であることにも異論はない。しかし、同時に小さな「違和感」もあった。そして、その「違和感」の正体がエンドロールで明らかになった。それは「プロデュース 川村元気」のクレジットである。

※以下、ネタバレありなので、作品を未見の方はご注意下さい

『怪物』

 ある日、靴が片方なかったり、水筒に泥水が入っていたりという出来事から、息子・湊(黒川想矢)の異変に気付いたシングルマザー・早織(安藤サクラ)が学校に問い合わせると、学校側の対応は全く誠意が感じられないものだった。そこから、心を持たないアンドロイドのような校長・伏見(田中裕子)の不気味さや、息子への担任教師・保利(永山瑛太)の暴力・暴言疑惑が浮かび上がってくる。序盤は安藤サクラ演じるシングルマザーの視点から描かれ、教師不信、学校不信が募る、なんとも息苦しい内容になっている。

 正直、これが全編続いたとしたら、是枝監督らしさも坂元裕二らしさも感じられない、不快感の強い作品に終始していたはずだが、同じ出来事が教師側に変わった瞬間、印象は一転。教師・保利から見る早織はむしろモンスターペアレントで、保利に暴力を振るわれたと嘘をつく子どもたちが、理解不能の得体の知れない「怪物」のように感じられる。そして、同じ物語がさらに「子供側」の視点に変わると、新たに全く異なる景色が見えてくる。

 このように、同じ物語が複数章で、3つの異なる視点から描かれる構成は、黒澤明監督の映画『羅生門』(1950年)のスタイルと言われ、本作においても人物の奥行ある描き方や多様な価値観への理解を導く道筋になっている。是枝作品らしく、子供たちは実に生き生きと描かれ、なおかつマイノリティへの理解も示しつつ、死をも想起させつつ希望の見える「結末」で締める。実にまとまりがよく、完成度が高い。

 逆に言うと、坂元裕二作品にしては、わかりやすくて、まとまりが良すぎる印象があるのだ。

 その理由は、『カルテット』や『大豆田とわ子と三人の元夫』にハマった層に、『anone』(2018年/日本テレビ系)や『初恋の悪魔』(2022年/日本テレビ系)は観ていない、あるいは途中で脱落した人が多数いたことと共通している。

 特に『初恋の悪魔』などは最初の第1話、第2話ではメインキャラの人物像も背景も関係性もわからず、非常に難解で、それがグンと面白くなってくるのは、点と点がつながって来た第4話あたりからだった。

 半ば「信者」にも近いコアな坂元裕二ファンは、序盤から過去作との関連性やキーワードなどを読み解き、セリフ一つ一つを堪能し、点と点を自分なりにつないでみる思考に耽っていた。しかし、そこまで待ちきれず、混迷の最中で離脱した人が多かったのは、全編通して味わい尽くした層からすれば、なんとももったいないと言わざるを得ない状況だった。最近になって『カルテット』と『大豆田とわ子と三人の元夫』に配信でハマった若い世代の一部からは「私は坂元裕二ファンじゃなくて、佐野亜裕美Pファンなんだとわかった」という声もSNSで散見されたほどである。

 しかし、逆に言えば、その噛み応えこそが坂元裕二作品の魅力ともいえる。わかったつもりが、実は一部しか見えていなかったことに後から気づかされたり、自分の視野の狭さに愕然としたり、時を経て見直すと、また違った意味に見えてきたり。物事を単純化せず、混迷は混迷のままに出し、観る側に委ねる部分があるからこそ、何度も何度も咀嚼して自分なりの解釈を深めるファンが多いのだろう。

 坂元は会見などにおいて、本作の着想について、「生活していて、見えないことがある。自分が被害者だと思うことは敏感だが、加害者だと気付くのは難しい」として、以前車を運転していた際、信号が青になってもしばらく動かないトラックにクラクションを鳴らしたところ、それでも動かず、ようやく動いたら横断歩道に車いすの方がいて、クラクションを鳴らしてしまったことを後悔したというエピソードを語っている。そうした無意識の加害性に本当の意味で私たちが気づくのは、本作を観た数年後、あるいはもっと先かもしれない。

 だが、本作の場合は、3つの視点の「羅生門スタイル」で構成されているとはいえ、その対比が実にわかりやすく提示される。ある者にとっての「加害者」は、別の角度から見れば「被害者」であり、その噛み合わなさに「怪物」が存在する。その実、本人の認識はおそらく第三者の視点よりもだいぶ補正され、正当化され、美化されていることも見えてくる。偏見や思い込み、視野狭窄によって誰かを追い詰めていく「加害性」のみでなく、実はこうした解釈の補正や美化にも「怪物」は潜んでいると思わされる。

 ある意味、観客は深く思索せずとも、親切に引かれたガイドラインを辿ることで、この物語の奥行にたどり着ける仕掛けになっている。そこにこそ「川村元気プロデュース」を感じずにいられないのだ。

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