坂元裕二が『怪物』に託したのは希望か テレビドラマではない映画だから描けた結末

坂元裕二が『怪物』に託したのは希望か

 6月2日に劇場公開された映画『怪物』が話題だ。

※本稿は映画の結末に触れています

 監督は『誰も知らない』や『万引き家族』の是枝裕和。脚本は『Mother』(日本テレビ系)や『初恋の悪魔』(日本テレビ系)といったテレビドラマや、映画『花束みたいな恋をした』で知られる坂元裕二。

 もともと話題作だった『怪物』だが、第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞と、LGBTQやクィアをテーマにした作品を評価するクィア・パルム賞の二冠を達成した直後の公開ということもあり、映画館は活気付いている。

 筆者は坂元裕二の最新作という観点から本作を楽しみにしていたが、観た人によって印象が大きく変わる、恐ろしい映画だと感じた。

 『怪物』は、小学校で起きた事件を3つの視点から描く映画となっている。初めはシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)が、息子の湊(黒川想矢)が担任の保里先生(永山瑛太)から暴力を受けたことに対して、小学校に抗議する様子が描かれる。当初は責任逃れをする学校に対してシングルマザーが戦いを挑む物語に思えた本作だが、次に保里先生の視点から同じ時間軸の物語が描かれることで、奏が同級生の星川依里(柊木陽太)をいじめていたように見えていたことが判明する。

 そして最後に、湊と依里の物語となり、実は依里をいじめていたのは他のクラスメイトだったことが明らかになる。いじめられている依里と仲良くしているところを見られたくない湊は、人目のつかないところで依里と仲良くしていたが、依里の対して友情だけでは片付けられない感情が芽生えつつある自分に戸惑いを見せるようになっていくのだが、違う視点が挟み込まれることで別の物語が次々と生まれていく構成が実に見事である。

 坂元裕二がこれまで書いてきたテレビドラマの脚本と『花束みたいな恋をした』や『怪物』といった近年発表された映画の脚本を比べると、意図的に書き方を変えているのがわかる。

 テレビドラマの脚本を書く際に坂元が、結末を決めずに初めから順番に書いていくことは有名な話だが、その結果、作者自身もどこに着地するかわからないライブならではの緊張感が劇中に生まれる。そこで生まれる破綻スレスレの混沌こそが坂元ドラマの魅力である。

 対して映画では、尺の都合上、描ける物語が限られてくる。そのため、物語の規模はコンパクトにまとめて、思わせぶりな台詞や、あえて描かない空白の場面を作ることで、観客の想像力を刺激して行間を補完させるのだが、その結果、観客だけの特別な物語として映画は完成する。

 『花束みたいな恋をした』が面白かったのは、映画を観た観客が、自分の体験と重ねて語る感想が大量に溢れたことだが、同じことが『怪物』でも起こっている。坂元が脚本を書いた映画は、精神分析におけるロールシャッハテストのようなもので、映画を観て感じたことが、そのまま自分の心の奥底を映す鏡となっている。

 「怪物だーれだ?」と怪物探しに参加するうちに、自分の心の中に眠る一番触れられたくないものが引きずり出されてしまうことこそが『怪物』の恐ろしさなのだ。だから本作について書くことはできれば避けたいのだが、それは書き手としてフェアではないので、最後に自分の感じたことを書いておきたい。

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