宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第1回『ナウシカ』から『トトロ』まで

宮﨑駿映画を考える【第1回】

生きていく活力と、人生を肯定したいという願望

 様々な問題が山積している複雑な20世紀をどう生きればいいのか。どう解決すればいいのか。「ぼく自身の答えでいうなら、それは生きていく活力しかないと思う」(ホルスが迷いの森を抜けられたのは)「彼自身がそういうエネルギー、人生を肯定したいという熱烈な願望を持っていたからですよ」(『出発点』p474)と、宮﨑は1985年の時点で語っている。

 この「活力」は、アニミズムにおける生命の躍動と関わっているだろうし、宮﨑アニメのキャラクターや自然などの動きの中に籠められた思想の中核部分であろう。(後に「活力主義」を否定する発言もあるが)このような生命の躍動、活力に、最後の最後の希望を託す、というのは、『ナウシカ』の時点から既にあった思想のようである。

 ナウシカのキャラクターにしても、自然を愛する人間に往々にしてありがちな人間嫌いな世捨て人ではなく、現実や社会に対峙し行動して局面を切り拓いていく造型に意識的にしたという。それは、初めての長編アニメーション映画監督作である『カリオストロの城』のルパンの造型もそうだったようだ。

「60年代の末、反戦歌が広く口ずさまれ、日米安保条約の自動延長に反対する若者たちが新宿に“広場”をつくり、大学にバリケードがきずかれた。高揚した空気は、70年代を境にしてチリヂリになり、シラケだシラケだと叫ぶ人々があらわれていた」(『出発点』p425-426)

 TVでの最初のアニメシリーズ(1971年〜1972年)初期のルパンは、この「シラケ世代」的な人物だったと宮﨑は言う。そのルパンの性格を、シリーズ後半を担当した宮﨑と高畑は「まずなにより“シラケ”を払拭したかった」(『出発点』p426)ので性格を変え、「活力」ある人物にした。「活力」をこそキャラクターに抱かせ、行動させようとするという宮﨑のキャラクターに籠めた思想は、むしろ60年代的な集団性における政治的出来事から来ているようであり、70年代の消費社会におけるシラケ(政治的無関心)への批判のようなのだ。

『風の谷のナウシカ』©1984 Studio Ghibli・H

 とすると、『ナウシカ』の「活力」も、単にアニミズム由来だけであるとは言えず、60年代における大衆運動の熱気のようなものの息吹が入れ込まれているものだと理解した方がいいのではないだろうか。

 もちろん、この「活力」志向を批判することも容易い。元気のない人間、気力のない人間はどうすればいいのか、という批判はすぐに思いつく。だがおそらくは、「管理社会」こそが人びとの活力を損なっているのだ、という考えが宮﨑にあったのではないか。アニメーションを通じて、それらを観客の中に鼓舞し、回復させることを、宮﨑駿は必要だと思っていたはずである。その是非は議論しなければならないことだろうが、とりあえずここでは、そのことを確認しておくに留める。

『となりのトトロ』日本(人)を肯定しようとする努力

『となりのトトロ』©1988 Studio Ghibli

 『トトロ』も、アニミズムの映画である。トトロは「オバケ」であると宮﨑は語っている。企画書には、「この国にほとんど人がいなかったころから、彼らはこの国の森の中に棲んできました」「森の中の洞や、古い樹のウロに棲み、人の目には見えない」(『出発点』p399)とあり、「死者」や、自然の中にあるなんとなくモヤモヤしたパワー=「カミ」の感覚を表しているように思われる。それは、神道よりも古い次元にあると考えられているようである。

 『トトロ』は、「日本」に向き合う作品である。かつて、日本が好きになれなかった少年の頃の自分に、こういう日本だったら好きになれるのではないか、と提示するつもりで作った作品だと言う。

「ぼくはいつの間にか日本がきらいな少年になっていた。/まわりには中国人を刺殺したことを自慢する大人たちがいた」「ぼくの安っぽい民族主義は〔敗戦後に、引用者註〕列島コンプレックスにとって代わり、日本人嫌いの日本人になっていった。中国や朝鮮、東南アジアの国々への罪の意識におののき、自分の存在そのものも否定せざるをえない。心情的左翼になったが、献身すべき人民を見つけることもぼくにはできなかった」「日本を舞台にと思いつつも、民話、伝説、神話、すべてが好きになれなかったのだ」(『出発点』p266)

「農家のかやぶきの下は人身売買と迷信と家父長制と、その他ありとあらゆる非人道的な行為が行われる暗闇の世界」で「日本の景色を見ても」「みんな嫌な風景に見えました」(『時代の風音』p165)

 それを、どう肯定的に描いたのか。1984年、『ナウシカ』の直後に、宮﨑は縄文や照葉樹林にしきりに言及している。藤森栄一『縄文の世界』、中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』に大きな影響を受けたようである。「日本の歴史の中で人びとが一番安定しておだやかに生きられたのはどうも縄文時代じゃないか」(『出発点』p261)とすら言う。これらの影響で、国家や民族を超えた単位で物事を見たようだ。「違う目線で日本を眺める切り口が欲しかったんですよね。そうじゃないと、僕の遭遇してきた日本というのは本当に惨めなみすぼらしいものでしたから」(『風の帰る場所』p268)。

 「違う切り口」とは何に対してかというと、「生産と分配とか、労働と所有とか」(同)という、マルクス主義的な見方であり、それだけでは「片手落ち」になるのだと気づいたのだという。藤森、中尾によって、「歌舞伎とか能とかそんな衛生的できれいな日本とはちがった日本があった」(『出発点』p262)と知り、衛生的ではない猥雑な日本を描くときに、縄文的なアニミズムの感覚が出てきたようである。トトロとはその感覚の象徴であり、キャラクター化であると見做していいのではないだろうか。

 そして「語り部の素質のある母親が、くりかえし利かせてくれた山梨の山村の日常」(『出発点』p267)などがそれらの感覚に組み合わさり、「自分が何者の末裔なのかを教えてくれた」(同)とまで宮﨑は書く。「“ああ、おれはやっぱり日本人なんだ”と思ったんです。日本の歴史でいろいろなことが嫌だったけど、自分の何かがわかった気がしたんですね」(『出発点』p491)。どうも、自分の鼻格好や感性が、「縄文」だという認識も宮﨑にはあったようだ。自分は縄文人の末裔なのだ、というアイデンティティがここでは示唆されていないか(その是非の議論も、今は措く)。

『となりのトトロ』©1988 Studio Ghibli

 『トトロ』で描かれているのは、日本が近代化していく中で失われたもの、忘れられたものである。それを、ノスタルジックではなく、活力あるように描こうという演出意図が文章で残っている。近代(現代)に問題を感じ、「日本嫌い」の人間が自分自身のルーツを探した結果、様々な洗練された文明をすっ飛ばして、自然や縄文と接続される形でアイデンティティを再発見するプロセスがこのときに起こっていたようだ。

 特に、重要なのは「闇」である。宮﨑駿は、現代日本は「光」が多すぎる、と考えており、どうやらそれが西洋の「闇」を嫌う価値観の影響だと思っているようだ。照葉樹林を評価するのも、その鬱蒼とした植生は、杉などの人工的な林と比べて、「闇」があるからだ。「光」が「善」で「闇」が「悪」という西洋のファンタジーの二項対立を、宮﨑は批判している。その「闇」は、たとえば森の祠があったり、聖地になっていたりした場所であり、カミ=アニミズムの感覚における畏れの感覚を縄文以来の日本人の感覚と繋がっている、と考えている。「風土を変えてしまうと、精神的に深いところで受け継がれていくべき」ものが「切れてしまうんじゃないか」(『時代の風音』p197)と、1992年の時点で宮﨑は発言している。それを克服するために自分は作品を作っている、ということだろう。

 一般的には、本作がジブリを象徴し、愛されている作品なのではないかと思う。筆者の実家にも、まっくろくろすけのぬいぐるみがあった記憶がある。古き良き日本、自然と調和、というような、理想郷的なイメージが最も濃く、母性的な優しさのイメージが自然=アニミズム=トトロにある作品である(自然の恐ろしい側面も、台風という形で描こうとしていたようであるが。メイの遭難も、人間に優しくない側面であろう)。台風を描きたかったのは「巨大なエネルギーによる神秘性」(『風の帰る場所』p277)を求めてのことだ。それもまた、カミ的なものだろう。

『となりのトトロ』©1988 Studio Ghibli

 『トトロ』全体を、本論の文脈で位置づけるなら、それは「自分(たち)」「日本」を肯定しようとする努力であり、自分たちのアイデンティティを肯定する手段を提案することで、「どう生きるか」「活力」の問題に回答しようとした作品だろう。それは、日本が嫌いだった少年時代の自分への手紙でもある。「トトロが存在してることだけで、サツキとメイは救われてるんですよ。存在してるだけでです」(『出発点』p502)

 このような、国際政治や厄介な状況の中における日本を扱い、そこにおけるアニミズムの可能性を探ってきたのが、出発点における宮﨑駿作品であった。そして、その作品たちこそが、スタジオジブリを代表する作品となり、愛されているようである。

 既に述べたように、90年代には、それが否定される。宮﨑駿の「転向」が最もダイナミックに起こったのは90年代である。ではそれは、どのように展開していくのだろうか。

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