『NOPE/ノープ』に込められたテーマを徹底考察 逆転した“見られる者”と“見る者”の関係性

『NOPE/ノープ』のテーマを徹底考察

 リッキーは、かつてアジア系の子役として一世を風靡した人物で、チンパンジーと暮らす家族を題材としたシチュエーションコメディ『ゴーディーズ・ホーム』にも出演していた。そこで彼は、ゴーディー役のチンパンジーが、風船の割れる音に驚いてパニック状態になり、撮影セット内で俳優たちに襲いかかって死傷者を出すという大惨事に巻き込まれていた。この描写が、非常に時間をとって印象深く描かれているのだ。

NOPE/ノープ

 このエピソードと本筋を繋ぐ共通点は、冒頭で引用されていた旧約聖書『ナホム書』からの引用「私はあなたの上に汚物を投げつけ、あなたを軽蔑し、見世物にする」という一節に見出すことができる。

 『ナホム書』とは、かつて栄華を極めたアッシリア帝国の首都ニネベ滅亡を暗示する預言の書である。この一節は、悪逆と傲慢な態度に怒りを覚えた神による“復讐”に遭い、ニネベがおびただしい数の死体と流血の町となる、おそろしい情景とともに語られていく。

 「見世物」という言葉に集中したときに思い至るのは、本作のチンパンジー暴走の理由である。風船の割れる大きな音によってチンパンジーはパニックに陥ったのはたしかだが、出演者たちを襲い、返り血で全身が赤く染まるまで顔を殴り続ける姿から感じられるのは、むしろそれまでに累積していただろう“怒り”の感情だ。しかしリッキーだけは、暴力を振るわれずに済んだのである。これは、彼の隠れたテーブルに敷かれていた布がシェードの役割を果たし、目線を隠したからだと思われる。つまり、このチンパンジーは、“見られること”に対して怒りを感じていたと考えられるのだ。

 TV番組『ゴーディーズ・ホーム』では、カメラが向けられるのはもちろん、スタジオの観覧席に座った観客たちが、チンパンジーの一挙手一投足を、声をあげて笑う。チンパンジー自身がコメディ俳優として活躍することに意義を感じているのならともかく、そうでなければ毎度毎度大勢の人々に見られ、笑われるということが、大きなストレスになっていたとしてもおかしくはない。チンパンジーの執拗な暴力には、その境遇に追い込んだと思われる者たちへの“復讐”の意味があったのではないか。

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 そのように考えれば、テーマパークにおいて飛行物体を利用して「見世物」にしようとしたリッキーや観覧者たちが、同様の“復讐”に遭うのも道理なのではないか。そして飛行物体は、「ナホム書」の一節にあるように、これ見よがしに頭上から「汚物を投げつけ」、逆に勝ち誇ったかのように「見世物にする」のである。本作は、“見られる者”が“見る者”に“復讐する”というエピソードの連なりから成っているのだ。OJは、そのメカニズムの一部に気づき、“見る者”にならなければ飛行物体に襲われないという結論にたどり着いたことで、下を向き目を合わせないようにする。そうして、一命をとりとめることとなるのだ。

 しかし、果たしてそれで良いのだろうか。“見る者”にならなかったということは、“見られる者”になったということである。それはまた、OJやエメラルドの先祖の騎手が『動く馬』の被写体になったものの、その業績が正当に評価されなかったように、実際にはただ利用され、搾取され、消費されるだけの存在だったということと重なるのではないか。

 ジョーダン・ピール監督が考えているだろう、この見方を理解するには、ドキュメンタリー映画『13th 憲法修正第13条』(2016年)を観れば、ある程度納得できるのではないだろうか。この映画の内容は、憲法第13条で修正され、とっくに廃止されているはずのアメリカの奴隷制度が、実質的にはまだ存在しているのではという疑惑を追っていくものだ。

 『13th 憲法修正第13条』が注目するのは、囚人にはアメリカ市民としての権利を与えられないという点だ。活動家や学者などの証言によると、奴隷制廃止後から、アフリカ系の市民が軽微な犯罪で大勢逮捕され投獄されるようになり、結果として多数のアフリカ系の受刑者が権利を剥奪されて労働させられるようになったというのだ。それはつまり、実質的に奴隷制度が継続されているということではないか。

 もちろん、法律上では市民は平等のはずであり、特定の人種を迫害することを禁じている。しかし、アフリカ系の市民は日々の生活のなかで差別や不平等を、身をもって感じていると主張する人々が多い。どんなにアフリカ系の人々がアメリカ社会のなかで成功し、業績を達成しても、それを見る白人たちの目は、根本的なところではあまり変わっていないというのが、ピール監督の主張だと考えられる。それはリッキーのようなアジア系などの有色人種も変わらない。もともとコメディアンとして、過激なギャグを得意としていたピール監督は、とくに“見られること”、“笑われること”に対して、非常に敏感な感覚を持っているはずである。

 “見る者”と“見られる者”によってかたちづくられる支配構造は、映画やTV番組などの被写体と観客との関係にも重ねられる。たしかに、映画界などショービズ業界は、近年とくに多様性を受け入れている。しかしアメリカで、有色人種たちが本当の意味で対等の存在になれているとは言い難い。ピール監督は、そこを映画のなかで革命的に逆転させようと思ったのではないか。OJとエメラルドは、劇中で目を伏せることをやめ、自分を支配しようとする“目”に対し、決然と視線を向ける。自分たちこそが映画を支配し、支配されてきた悪しき伝統を破る。そして、既存の権力者たちと対等以上の存在となる……そんな決意と挑発が、この視線の意味なのではないだろうか。

 ジョーダン・ピール監督は、映画人としてハリウッドの大作監督になるまでに、類い稀なセンスと頭脳、そして社会の矛盾や欺瞞を斬る姿勢によって、成功への階段を駆け上がってきた。だからこそ、本作の挑発には説得力があるといえる。最も勢いのある監督の一人である彼が、自分の意志を通し、やりたい放題のスペクタクルを撮りあげたのが『NOPE/ノープ』なのだ。ここまで作家性を発揮してくれるピール監督が、次に何を手がけるのかは、非常に楽しみなところだ。

NOPE/ノープ

 最後に、ラストシーンに現れるOJの意味についても考えてみたい。彼は、伝説となった先祖同様、馬に乗った堂々とした姿で出現する。それは、見ようによっては、すでにこの世を去った“ゴースト”のようにも見える。本作は、OJが生きているのか死んでいるのか、明示しないまま幕を閉じるのである。だがここで、彼の生死の行方を考えても仕方がない。なぜなら作り手が、わざわざどっちにもとれるような演出を施しているからだ。

 むしろ重要なのは、生と死が重ね合わされた存在として描かれているということである。そこで思い出すのは、西部劇映画『シェーン』(1953年)だ。正義感と優しさを持ち、悪漢たちを撃ち倒した“流れ者”シェーンは、銃撃によって腹を負傷しながら、馬を駆り山の向こうへと姿を消していく。彼の生死は分からないが、だからこそ彼は映画史のなかで、記憶に残る存在になったのだといえる。これは、クリント・イーストウッドがいくつかの映画で演じてきた、“ゴースト”のようなガンマンも同様である。

 「映画」とは何か。そこに一つの答えを与えようとするならば、“死と生のはざまにある芸術”だといえるのではないか。昔の映画を観れば、いまはこの世にいない人々であっても、生き生きと動く姿が観られる。そして、そのフィルムやデジタルデータが存続する限り、“再生”を繰り返すことができる。

 それは、現存する連続写真『動く馬』に出演している、騎手や馬もまた同じだ。一瞬の像を切り取った写真に“生”の動きを感じるためには、「連続写真」でなければならず、それを動かす装置も必要となる。つまり、そうやって上映される「映画」は、ある意味で“死の芸術”たる写真に、限定的な“生”を与えるシステムだといえるのである。その意味において、「映画」は死んでいるとともに生きている……すなわち、“生と死の重ね合わせ”だと表現できるのだ。

 だからこそ本作に顕現する、馬に乗るOJの姿は、物語という枠組みにおいて“伝説的”な意味合いがあるとともに、媒体の意味性においても、時代を超えて印象に残るヒーローであり、「映画」を題材とした本作を象徴する存在となったといえるのではないだろうか。

■公開情報
『NOPE/ノープ』
全国公開中
監督・脚本:ジョーダン・ピール
出演:ダニエル・カルーヤ、キキ・パーマー、スティーヴン・ユァン、マイケル・ウィンコット、ブランドン・ペレアほか
撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ
製作:イアン・クーパー、ジョーダン・ピール
配給:東宝東和
©︎2021 UNIVERSAL STUDIOS

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