『スパイダーマンNWH』は可能性を“捨てる"物語 マルチバースが現代に必要とされる理由
無数の可能性が拡がる現代社会の新たな苦しみ
マルチバースは無数の宇宙があることを私たちに気づかせる。宇宙の数だけ別の可能性があるのだと教えてくれる。
だが、トムホが別の人生を選べないように、私たちもその無数の可能性を手にできるわけではない。カタログに大量のメニューが載っているのにどれも注文できないようなものだ。
先に、マルチバースは「優しい」と書いた。確かに「優しい」一面はある。だが、残酷な一面もある。選択の自由には逆説があるからだ。
マーケティングの世界には「ジャムの法則」と呼ばれるものがある。6種類のジャムを試食販売した時と、24種類のジャムを試食販売した時の売上を比較すると、6種類のジャムの時の方が良く売れるのだ。これは、人は選択肢が多すぎるとどれが良いのか吟味しきれなくなり、吟味できなかった選択肢の中にもっといいものがあるかもと悔やんでしまうことから生じる。それなりの良いものを選んだとしても、多数の選択肢を提示された後だと、「あっちの方が良かったのかもしれない」という後悔が拭えなくなるのだ。
「決断疲れ」という言葉も生まれているが、現代人はどんな時も多くの選択肢を前に常に決断を迫られている。
マルチバースの物語を映画として観る時、私たちは別に選ぶ必要はないので、純粋に楽しめばいい(実際、純粋に楽しい)。だが、マルチバース的な概念に触れた私たちは、「そうか、別の宇宙には別の可能性があるのか」と考えるようになる。そこから、自分の人生にも別の可能性が無限にあるかもしれないと考え始める人もいるだろう。
実際に、現代は生き方の選択肢が増えている。それは、私たちは多数の選択肢から生き方を選ばないといけないということでもある。選ぶというのは、他の可能性を切り捨てるということなのだが、この残酷さは上に紹介した「ジャムの法則」のようなジレンマを生む。
ジャムを選ぶくらいなら別にたいした心の傷にはならないだろう。だが、人生の選択肢がそのように大量にあると思い始めたら、実は結構大変なことである。そんな時代には、人は絶えず「もっといい人生があったのではないか」という想いに囚われ続けることになるかもしれない。選択肢がないことは悲劇だ。だが、選択肢が多すぎても苦しくなる。これからの時代には、この新しいタイプの苦しみについて議論が増えるのではと筆者は考えている。
さらに言えば、無数の選択肢があっても、それぞれの人に選べないものもたくさんある。世界はダイバーシティで様々な生き方も人種もジェンダーも許容する。だが、筆者がアジア人に生まれたことは取り消せない。貧困層に生まれた人はその出自を取り消せない。医者の父親を持つ少年は医者を目指さなければいけないかもしれない。それゆえに、選べない生き方が無数にある。
それは無数の選択肢が目の前に提示されているようでいて、自分には選べない選択肢もまた無限に増えていくようなものではないだろうか。そうなると、「なぜ自分の人生はああいうふうに上手くいかないのか」と思い悩む人も出てくるのではないか。少数の選択肢しかなかった時代にはなかった苦しみが生じることになる。
結果として、誰も傷つけないための物語装置であるマルチバースは、逆に多くの人を傷つけることもあり得るかもしれない。なぜなら、無数の宇宙があり、無数の人生のバージョンがあったとしても、あなた自身はあなたの、「たった一つの人生」しか経験できないことをマルチバースは突き付けるからだ。
『スパイダーマンNWH』が感動的なのは、そんな残酷さをトムホが自身の決断によって乗り越えていくからだ。どうあっても取り消せない自分の人生を、「大いなる責任」とともに引き受ける。その強い覚悟に私たちは涙する。
その時、人はその苦しみをどう乗り越えればいいのか。この映画の主人公の決断には、それを考える大いなるヒントがあると筆者は思っている。どれだけ苦しい運命が待っていても、たった一つの人生のかけがえのなさを抱きしめ、戦い続ける。これからの時代を生き抜くためにはそういう強い気持ちが必要なのだ。
参考
※1 『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』公式サイト
https://www.spiderman-movie.jp/multiverse/
■公開情報
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
全国公開中
監督:ジョン・ワッツ
脚本:クリス・マッケナ、エリック・ソマーズ
製作:ケヴィン・ファイギ、エイミー・パスカル
出演:トム・ホランド、ゼンデイヤ、ベネディクト・カンバーバッチ、ジョン・ファヴロー、ジェイコブ・バタロン、マリサ・トメイ、アルフレッド・モリーナ、ウィレム・デフォー、ジェイミー・フォックス
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
原題:Spider-Man: No Way Home
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