【ネタバレあり】『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』から考えるヒーローの定義

『スパイダーマン』から考えるヒーローの定義

※本稿は『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のネタバレを含みます。 

 まだまだ世界的にコロナ禍から脱却する見通しが立っていないなかで、これほどまでに熱狂的に迎えられ、かつ興行的にも目を見張るようなメガヒットを記録した娯楽超大作を前にして、やたらと小難しい言葉を並べて論ずるというのもいささか無粋に思え、少々憚られるものがある。率直に言えば、150分に渡ってスクリーンに映る魅力的な世界に目を輝かせながら入り込み、場内が明るくなったら「あー、おもしろかった」と一言述べながら、伸びでもして緊張した体を解すに留めるのが娯楽映画に向き合う筋のようなものだ。

 そう思いながらも、この『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』をあえて論じるのであれば、これまでの一連の「スパイダーマン」の物語に通念してきたテーマである「大いなる力には、大いなる責任が伴う(With Great Power, Comes Great Responsibility)」という言葉に触れるのが賢明であろう。もっとも、『アベンジャーズ』をはじめとしたアメコミヒーロー映画がこんなにも隆盛を極めている背景には、時代に即した新たな要素を付け加えてもブレない強固な原作の存在や、フランチャイズ化という一種のリスクヘッジのようなビジネス的要因はもちろん、作品の内部にも“正義”を問いかけるといった様々な社会的な含意が現代の観客に刺さっていることは言うまでもない。

 世界が不安定であればあるほどヒーローが求められるというのは、映画の内側の世界も外側の世界にも共通していることである。とはいえそもそもスパイダーマンという存在は、他のヒーローのようにこの上なくファンタジックで人智を超越した存在であるかと言われれば決してそんなことはない。トビー・マグワイアが演じたサム・ライミ版3部作、アンドリュー・ガーフィールドが演じた『アメイジング・スパイダーマン』2作、そしてトム・ホランドが演じたMCU版。いずれも限りなく平凡な青年が能力を得たことによって直面する、幾多のトラブルを回避・学習・攻略していくプロセスを辿るに過ぎず、その根底にあるのは純然たるヒーロー譚ではなく、ニューヨークの街を愛し、ヒロインに恋心を抱き、友人や家族、将来に悩むオールドファッションなティーンの青春譚なのである。

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム

 とりわけ同じ世界線上に「アベンジャーズ」が存在しているMCU版においては、3作通して手掛けてきたジョン・ワッツ監督が初めから目指していたジョン・ヒューズ作品的な空気感によって、他のMCU作品との良きコントラストを生み出し、一個独立した青春映画として、たとえそれが“指パッチン”後の世界であってもキープされ続けるのだ。そう考えると、前作『ファー・フロム・ホーム』で対峙したミステリオ(ジェイク・ギレンホール)によって正体が世界中に暴かれてしまい、それによって崩壊した日常を取り戻すべく人々の記憶を消すという荒療治に出たばっかりに、“マルチバース”を開いてしまう本作。その幾重にも重なったトラブル対応の様子は、どことなくヒューズの変化球がキマった『ときめきサイエンス』を想起させる。

 もちろんそのような日常に即した世界観であるからこそに、先に挙げた3つの『スパイダーマン』シリーズを通して“悪役”たちの存在は、よくある映画的にわかりやすい絶対悪ではなく、主人公の青春模様を脅かす異物のような形でとして存在してきたようにも見える。天才科学者が精神分裂を起こして悪を覚醒させてしまうグリーンゴブリン(ウィレム・デフォー)をはじめ、機械の反乱で操られてしまう哀しき科学者たるドクター・オクトパス(アルフレッド・モリーナ)。自身の罪の意識に苛まれ続けるサンドマン(トーマス・ヘイデン・チャーチ)や、憧憬を歪ませていくエレクトロ(ジェイミー・フォックス)も然り、そこにはやたらめったら壮大なスケールの目的を挟み込まないことで彼らの“人間らしさ”が保たれ続け、悪人もまたひとりの人間に過ぎないのであると示す。それがこの物語全体を、日常から乖離させない役割を果たしているといえようか。

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