『スパイダーマンNWH』は可能性を“捨てる"物語 マルチバースが現代に必要とされる理由

マルチバースが現代に必要とされる理由

誰も傷つけたくない時代の物語戦略

 現代は、傷つくこと、傷つけることを恐れる時代だ。様々な研究が指摘していることだが、一例を挙げると、青少年に関する著書を多く書いている社会学者の土井隆義氏は、著作『友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル』(筑摩書房)の中で、現代の若い人は対立の顕在化を恐れ、親密な関係でも自分をさらけ出さず、相手を傷つけないように細かく配慮することに腐心しているという。そして、そのように対立の回避を最優先する対人関係のことを「優しい関係」と呼び、ある種の生きづらさがその「優しい関係」の増大によって生じていると指摘している。

 マルチバースもある種の「優しさ」である。アメコミに詳しいライター、杉山すぴ豊氏はマルチバースが必要とされる理由を以下のように語る。

杉山:時代ごとに作品をリセットしていかなきゃいけないっていう時に、前好きだったバージョンを否定されるのがファンは嫌なんです。だから、それはそれで、ちゃんと別世界の話なんですよって言うと、精神的に安定する。
多分これから先、新しいアイアンマンが出てきた時に、「ロバート・ダウニー・Jr.のアイアンマンが私は好きだった」という人は必ずいる。そこで、「別の世界」と言ってくれると、安心できるんです。マーベルは『007』みたいに役者を代えてつなげていくことをしないから、マルチバースという考え方は悪くないなと思います。

――ファンに優しいシステムでもあるんですね。

杉山:そうですね。「アンドリュー・ガーフィールドのスパイダーマンが1番イケメンで好きだ」っていう人もいるし。そういう“前”を否定しない感じが、すごく大事なことだと思います。

(『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』公式サイトより)※1

 つまりマルチバースは、新しいスパイダーマンが登場しても、昔のスパイダーマンが好きな人を傷つけないための措置であり、そのあり方は、人間関係においても傷つくことを回避する現代人の心性ともほどよく合っているのだろう。

 そして、あらゆる無数に宇宙が存在し、様々なスパイダーマンがいるという設定は、現代で推進されるダイバーシティとも結びつく。映画『スパイダーバース』では黒人の少年、マイルズ・モラレスが主人公だったが、しかし、今までの白人のスパイダーマンも別の宇宙に存在している。誰かが新たにスパイダーマンになっても、今までのスパイダーマンを上書きしてしまったわけではないよ、ということだ。

 マルチバースとは、つまり、「みんな違って、みんないい」を実践できる設定なのだ。

「ゲーム的リアリズム」とマルチバース

 マルチバースが要請される環境について、「優しさ」以外の点からも考えてみたい。

 マルチバースのような並行世界がいくつもあるという設定は、ゲームっぽいと感じる人は多いだろう。ビデオゲームのロールプレイングゲームは、一つの世界だが、プレイヤーの数だけ物語があると言える。私のゲーム体験とあなたのゲーム体験は、同じゲームであったとしても、異なる。私は最初のスライム戦でいきなり死んだかもしれないが、あなたはきちんと倒して先に進んだかもしれない。異なる体験がプレイヤーの数だけ無数にある。

 そのように、自分が体験した世界とは異なる体験があるということを、ゲーム好きな人は当たり前の感覚として持っている。似ているけれど、異なる世界が複数あるマルチバースの世界観は、これに通じるものがある。

 現代人がそのような「ゲーム的感性=ゲーム的なリアリズム」に生きているという主張は、ゼロ年代批評では盛んだった。批評家の東浩紀氏は、『ゲーム的リアリズムの誕生』で文学におけるリアリズムの変遷を以下のようにまとめている。

 純文学のような古典的な文学は現実世界を写生する「自然主義的リアリズム」、その後、アニメやマンガのような虚構を描写する「まんが・アニメ的リアリズム」が出現したという大塚英志氏の論をさらに発展させ、ゲームのプレイ体験のように何度も異なる世界やタイムループのようなやり直しを導入し、リセット可能な反実仮想を物語に導入する「ゲーム的リアリズム」が発生したと主張している。

 ゲームの重要な機能に「リセット」がある。ゲーム内で死んでもセーブした箇所から何度でもやり直せる。失敗しても何度も反復してトライできる感覚を導入した文学作品がゼロ年代には多数登場、とりわけライトノベル市場で多く見られるようになった。

 「自然主義的リアリズム」や「まんが・アニメ的リアリズム」では、基本的に登場人物の死は唯一のもので、やり直しはきかない。そこには「死にゆく身体」があるが、ゲームのような小説にはそれがないと主張した大塚氏に対し、東氏は、一回かぎりでない反復可能性を体験することで人は初めて自身の一回かぎりの生を実感することを描くのが「ゲーム的リアリズム」の作品群なのだと説いた。

 ゲーム体験で大切なのは、ゲーム世界はリセット可能でも、ゲームをプレイする自分自身の人生はリセット不能であるという点だ。ゲームは死にゆく身体を否定しているが、プレイヤーの自分はいつか死ぬ。リセット可能性のある世界を体験して、初めて人は自分の唯一の生を、かけがえのなさを実感するのだ。

 『スパイダーマンNWH』のトム・ホランドのピーター・パーカー(以下、トムホ)は、隠していた自身の正体を世界中に知られてしまう。そして、世界中の人々の記憶を消去できないか、ドクター・ストレンジに頼みに行く。記憶の消去もある種の「リセット」と言えるかもしれない。しかし、MJなど自分の大切な人の記憶すら消してしまうことがわかって、横やりを入れた結果、マルチバースの扉が開いてしまい、別の宇宙からヴィランたちがやってくる。『NWH』は、ここから物語が転がっていく。

 記憶を消してもトムホだけは記憶を持っているのは、ゲームプレイヤーの立場に近い。リセットすればゲーム世界のキャラは何もかも忘れるが、プレイヤーたる自分だけは何があったか覚えている。

 ネタバレを避けるために詳述しないが、『NWH』の展開の一部は、「死にゆく身体」の否定(正確に言うとやり直し)へ向かう。だが、とある大切なキャラクターに関してはその可能性が模索されない。ここは筆者も充分に咀嚼しきれていないでいる。彼らが生き残れる可能性を模索するなら、このキャラが生き残れる可能性も模索していいのでは?、と思えなくもない。まあ、マルチバース同士を繋げすぎるのは多分あまりいいことではないのだろう(だとすると、運命を変えてしまうことも良くないことかもしれないが)。

 だが、マルチバースによって様々な可能性を目撃したとしても、主人公トムホの体験は、トムホ固有のものであるという点が重要だ。トムホはトビー・マグワイアやアンドリュー・ガーフィールドと同じピーター・パーカーだが、同じ人間ではないので入れ替え不能な存在だ。プレイヤーたる自分はリセットできない。複数の宇宙が目の前に出現して可能性を見せられたからこそ、自分の所属する宇宙のかけがえのなさも実感できるのだ。

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