『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が示した、クロスオーバー作品の新たな可能性
さて、物語はシリーズ前作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019年)で、スパイダーマンの正体がピーター・パーカー(トム・ホランド)であることが世界中に暴露されるという、衝撃的なラストの直後よりスタートする。前作に登場した、自分がヒーローだと偽っていた詐欺師「ミステリオ」(ジェイク・ギレンホール)がもたらした「フェイクニュース」は、依然として多くの人々に信じられており、悪の汚名を着せられたスパイダーマンともども、ピーターは世間からの激しいバッシングの対象となってしまう。被害はピーターだけでなく、最愛のMJ(ゼンデイヤ)や親友のネッド(ジェイコブ・バタロン)にまで及び、親友たちの大学進学の道が絶たれることになる。
そんな状況を変えるため、ピーターは、同じくニューヨークに住んでいるドクター・ストレンジの屋敷を訪ね、魔術によって人々の記憶の一部を消してほしいと依頼する。だが、その魔術は失敗したばかりか、ソニー・ピクチャーズの二つの『スパイダーマン』世界から、強力なヴィラン(悪役)が次々にやってくる事態を引き起こしてしまう。一見、荒唐無稽で常識外れな展開にも感じられるが、このように作品同士を結ぶ多元宇宙からのキャラクターたちの戦いは、すでにコミックで描かれており、『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018年)でも、多数のスパイダーマンが共闘する展開を、われわれ観客は経験しているはずだ。
とはいえ、過去の実写シリーズのヴィランたちが、同じキャストのまま登場するという点には、実写映画ならではの感動がある。とくに、いまや現在のヒーロー映画ブームへ繋がる大きな一歩となったサム・ライミ版に登場した、グリーン・ゴブリン(ウィレム・デフォー)や、ドクター・オクトパス(アルフレッド・モリーナ)らとトム・ホランド演じるスパイダーマンが相対する場面は、その公開時期から、時代をともに生きてきた観客には、格別の思いをもたらすはずである。
『スパイダーマン』(2002年)が観客に大きな衝撃を与えた一つには、このグリーン・ゴブリンの存在があった。『ジキル博士とハイド氏』のように、穏和な性格が凶悪に豹変するサイコホラー的な役柄を演じたウィレム・デフォーの危機迫る演技や、空の彼方から「ハッハッハ……!」という不気味な哄笑とともに現れ、爆弾を投げつけて人々を殺傷していくという、グリーン・ゴブリンの攻撃する描写は、ほとんどホラー映画の演出であるかのように怖ろしい。これは、コミックヒーローを愛しながら、同時に多くのホラー作品を手がけてきたサム・ライミ監督ならではの卓越した表現といえよう。
さらに、ピーター・パーカー(トビー・マグワイア)自身の過失による大いなる喪失と、善悪や責任の問題に思い悩むという、原作でも描かれたテーマが重くのしかかっているのも、このシリーズが単に楽しむだけの映像作品であることを拒否している点である。同シリーズが大ヒットし、いまでも多くのファンに愛されているのは、このように、従来の「ヒーロー映画」の枠を超えた迫真性があったからである。そして、その姿勢こそが、現在大きな成功を収めているマーベル・スタジオ作品に決定的な影響を与えているといえるだろう。その意味では、本作がサム・ライミ監督の作品世界と繋がることは、自らのルーツと手を結ぶことでもある。このクロスオーバーには、そういった感動も含まれている。
トビー・マグワイアのピーターが喪失を経験したように、トム・ホランドのピーターもまた、自分の選択によって大きな喪失を経験することになる。明るい青春学園ものとして楽しまれてきた、マーベル・スタジオの『スパイダーマン』シリーズは、本作によって、ついに大人の世界に足を踏み入れ、厳しい現実と正義の問題に引き裂かれる。そのことによって本シリーズは、これまでの『スパイダーマン』シリーズと、テーマの面でも接続されることになったのだ。
喪失といえば、ラブロマンスの要素が多く盛り込まれた『アメイジング・スパイダーマン』シリーズにおける、アンドリュー・ガーフィールドが演じたピーター・パーカーもまた、厳しい現実に直面した悲劇のヒーローだった。それがあまりにも悲痛なために、『アメイジング・スパイダーマン』シリーズには、ストーリー上のネガティブなイメージがつきまとっている。おそらくは次作の企画も用意されていただろう、このシリーズは、なかば打ち切りのようなかたちで、2部作で終了することとなった。そのため、なおさら暗い印象で物語が終了してしまうことにもなったのである。
興味深いのは、そんな『アメイジング・スパイダーマン』シリーズの内容を、本作の展開がフォローする役回りを担っている部分もあることだ。世界が繋がることで、既存の作品に新たな展開、新たなエンディングを用意することができる……。それは、クロスオーバー作品だからこその、新たな可能性を示唆しているといえるだろう。