ヘッドバンギングする聖少女 『ジャネット』『ジャンヌ』『裁かるゝジャンヌ』を見比べて

“ジャンヌ映画”を見比べて

 この冬、フランスの聖少女ジャンヌ・ダルク(1412年?~1431年)を主人公とする映画が、立て続けに3本も公開されることになった。スキャンダラスな演出手法で新作発表のたびに騒動を巻き起こす、現代フランスの奇才監督ブリュノ・デュモンによる2部作『ジャネット』(2017年)と『ジャンヌ』(2019年)。そしてもう1本は、デンマークの名匠カール・テオドア・ドライヤー監督によるサイレント映画の金字塔『裁かるゝジャンヌ』(1928年)。この3本にはなんと90年もの年代の開きがあるけれども、この機会に見比べてみるのはたいへん意義深いはずである。

 まずデュモン監督の2部作だが、この人の性分だから仕方のないことではあるが、ようするにトンデモ映画に仕上がっている。史実では農家の娘ジャンヌは12才で「フランスを救え」という神の声を聴き、16才で百年戦争に参加し、イングランド軍を破って英雄になったということになっている。ところが、従軍する前の村での生活を描いた第1部『ジャネット』でジャンヌを演じたのは、ロケ地周辺で見つけてきた演技経験ゼロのリーズ・ルプラ=プリュドムという8才少女。これまで多くの映画で演じられてきたジャンヌ役の女優たちに比べ、極端に幼い年令である。

 映画の歴史のなかで、ジャンヌ・ダルクを主題とする映画はおよそ40本。今回、精細な画質のデジタルリマスターで再公開される『裁かるゝジャンヌ』のドライヤーをはじめ、ジョルジュ・メリエス、セシル・B・デミル、ヴィクター・フレミング、オットー・プレミンジャー、ロベルト・ロッセリーニ、ロベール・ブレッソン、ジャック・リヴェット、リュック・ベッソン……錚々たる映画作家たちがジャンヌ・ダルクの映画化に挑んでいる。

 なかんずく特筆すべきは、2回もジャンヌ役を演じたイングリッド・バーグマン(1915年~1982年)だろう。フレミング版『ジャンヌ・ダーク』(1948年)に出演したとき、彼女はすでに33才だった。夫であるロッセリーニが舞台劇を撮影した『火刑台のジャンヌ・ダルク』(1954年)のときには39才。ちなみに、『風と共に去りぬ』の監督フレミングの『ジャンヌ・ダーク』はひどい駄作で、「フォロー・ミー(私に続け)!」となぜか敵のことばである英語で絶叫するバーグマンの力み過ぎた演技は目も当てられないものだった。いっぽうドライヤー版『裁かるゝジャンヌ』の主演ルネ・ファルコネッティ(1892々~1946年)は、ジャンヌ映画史上最も神話的な存在であることは議論の余地がないが、『裁かるゝジャンヌ』公開当時、ファルコネッティは36才だった。つまりジャンヌ・ダルクを演じるとは伝統として、成熟した一流女優としての存在証明だったということである。

『ジャネット』(c)3B Productions

 これに対し、デュモンの戦術はきわめて倒錯的なものだ。いつもの人を喰った、ふざけた演出は健在で、素人出演者たちの動きは滑稽なほどにぎこちなく、セリフ回しも棒読みに近い。ミュージカル仕立てになっており、爆音のヘヴィメタルに合わせてジャンヌたちはヘッドバンギングし、やがてラップのようなセリフ回しになっていく。つまり、デュモンはジャンヌから神話性を剥奪する。ところが、いったん聖性を剥ぎ取ったところから、地元の素人少女リーズ・ルプラ=プリュドムの弱々しく、幼い肉体による演技以前の演技のなかに、聖性を再発見しようとしているのである。

 ジャネット/Jeannetteとは、ジャンヌの幼年期の呼び名である。ジャンヌ/Jeanneの語尾につく「-ette」は指小辞と呼ばれるもので、小さきものに対して親愛の気持ちをこめる際に使う。ソナタに対してソネットは小さな歌曲から派生した形式だし、rive(川)に対し、rivetteは小川となる。デュモンはこの指小辞に目をつけ、いと小さきさまに聖性を見出そうしたのではないか。リーズ・ルプラ=プリュドムの素人くさいぎこちなさ、セリフの棒読みのなかにジャンヌ・ダルクの素朴な信仰心、熱狂の小さな火種を見出そうとしたのではないか。

『ジャネット』(c)3B Productions

 『裁かるゝジャンヌ』のファルコネッティは、これとは正反対だ。演技養成のエリート校コンセルヴァトワールで学び、フランス演劇の最高峰コメディ・フランセーズでキャリアを飾ったファルコネッティは、彼女自身のなかにすでに常人には代えがたい聖性が宿っている。『裁かるゝジャンヌ』を見るとは、ファルコネッティという天才の顔貌を凝視する体験である。1920年代のパリは、シュルレアリスム、ダダイズム、後期キュビスムが入り乱れる前衛芸術のおそるべき都だった。その渦中で製作された『裁かるゝジャンヌ』で、イングランド兵がファルコネッティの左腕を乱暴にねじり上げ、無理やり指輪をはずすショットは、あたかもキュビスム絵画の傑作を美術館のフロアで前にしたときのような戦慄が走る。

 クラシック音楽の年代にたとえるなら、19世紀の古典派やロマン主義よりも、17~18世紀のバロック音楽の方がはるかに現代音楽とリンクする逆説が成り立つように、1928年の無声映画『裁かるゝジャンヌ』が結局のところ、その後にたくさん作られたいかなるジャンヌ映画よりもはるかに現代的で、鮮烈で、正確で、前衛的である。久しぶりに同作を見て、それは明らかとなった。ジャンヌ・ダルクは百年戦争における救国の英雄であり、近代、現代をつうじて愛国勢力の熱狂的な支持を得てきたし、カトリック教会も1920年にジャンヌを聖人に加えた。しかし『裁かるゝジャンヌ』のドライヤーは、大司教以下、教会中枢の醜悪さを執拗なクロースアップで強調したうえで、ファルコネッティの放つ聖性と比較対照させている。悪しき権力構造に対する、少女の孤独な、BABYMETALじみた形容だが、ロード・オブ・レジスタンスなのである。『ジャネット』において少女がつねに青い衣裳をまとうのは、レ・ブルー(Les bleus)、つまりサッカーやラグビーのフランス代表のトリコロールを先取りしているんだぞ、という悪戯心にちがいない。

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