『ボス・ベイビー』は“考えずに感じる”映画? 子供の視点と感情に寄り添う奇作的な魅力

『ボス・ベイビー』は“考えずに感じる”?

 アニメーション映画って、時々少し難しい。近年のピクサー作品のような、どちらかといえば大人が観た時に深いい話すぎて泣ける作風を意識したものや、ユニバーサル作品のように大人も子供も楽しめるザ・王道エンタメに振り切っているもの。ひとえにアニメーション映画=子供向けというわけでもないからこそ、老若男女の集合体、つまり「家族」が観て楽しめるファミリー映画と捉えるのがいいんだろう。

 それぞれのスタジオに持ち味があるが、なかでもドリーム・ワークスは誤解を恐れずにいえば最初からなんというか、ちょっと異質な存在だった。そして、その中でも『ボス・ベイビー』は“クレイジーオブクレイジー”な映画である。

 本作は、『マダガスカル』などの製作に関わってきた(そして何を隠そう、あのペンギンズ隊長の声の主でもある)トム・マクグラスが監督したコメディ映画。主人公のティム少年は、ある日突然家にやってきた赤ん坊に両親の愛情や注意を奪われ、脅かされる。しかもその赤ん坊、もといボス・ベイビーはスーツを着ている上に、おっさんみたいな声で喋る。重要な任務を遂行するためにティムの家にやってきたというので、最初はいがみ合っている2人が、お互いに離れられるように協力関係を結ぶことになる。

 これが『ボス・ベイビー』の大筋だが、大人が深読みをすればするほど、不可解極まりない作品である。正直なところ、本作に整合性を求めることは取り出した自分の脳みそをマイクロウェーブに入れて温めることと同じだ。

 まず大前提として、いわゆる「信用できない語り手」によって物語が進んでいくことを念頭に置くことが重要である。映画のオープニングで描かれるのは、主人公のティムがジャングルでゴリラと戯れあいに近い形で戦う場面。このゴリラが実はお父さんで、ティム少年の視点で描かれる「ごっこ遊び」を表しているのだ。続けて、彼はナレーションで以下のようなことを話している。

「僕にはこんなふうに見えていた。その頃、僕は7歳。想像の世界に生きていた」

 そう、最初からこの映画はティム少年の“想像の世界”が大部分を占めており、そんなふうにして考えるといろいろ腑に落ちることもある。おそらく彼の“妄想”が始まったのは、ティムが冒頭で寝た後の映画のオープニングシーンから。ティム劇場のはじまりという意味合いでも“オープニングシーン”と言えるだろう。明らかに眠りにつく前の、おそらく「現実パート」と思われる時点では、お母さんのお腹が膨らんでいた。そして、その後描かれる赤ちゃん工場の様子。この工場の造形が、ティムが目を閉じる直前、最後に見たベッドスタンドにある模型に酷似していることからも、それらが彼の想像の産物であることへの説得力が高まる。

 妄想が大好きなティムから見える世界は、もちろん“普通”ではない。忍者になったり、海賊になったり、自分の乗っている自転車がバイクになったりする。そういった場面、つまり明らかに「ティムの想像」であるものが描かれる場合、本作ではわかりやすいように絵柄がカートゥーン的な、絵本的なものにガラリと変わる。そうやって差別化をしているから、明らかに現実での出来事を子供の視点を通して誇張表現されているのがわかるのだが……私たちはこの辺で思考を放棄しないといけない。なぜなら、「妄想パート」がわかりやすく差別化されているからこそ、「では現実パートはどこなのか」という疑問が首をもたげてしまうからだ。そして、その現実はたびたび「両親(大人)の視点」として本作で描かれている。

 それでいうと、“確かに”赤ん坊は家にやってきている。ティムとボス・ベイビーが魔法のおしゃぶりでトリップしている最中に、父親が部屋に入ってその様子を目撃しているからだ。そしてボス・ベイビーの声を“録音した”テープを奪い合うくだりで、ティム視点では激しいカーチェイスで映されている様子も、一瞬親たちが見るとめちゃくちゃ小規模に描かれている。ボス・ベイビーがタクシーに乗ってきたという非現実的な登場は、恐らく“本当は赤ちゃんがどこから来るか”を聞いた彼の抱いた嫌悪感とそれを否定したいという気持ちの表れを含む暗喩であり、冒頭でお母さんのお腹が大きかったように、本当にテンプルトン家は赤ん坊を授かったということになるわけだ。

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