B・カンバーバッチの名演に圧倒 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』が残す不穏な余韻の正体
その一方で現代的な服装に身を包んで表立った感情を出さず、両親から受け継いだ牧場の経営を「ビジネス」に変革しようと画策する柔和な弟ジョージに扮したジェシー・プレモンスの抑えた存在感も素晴らしい。ジョージに見初められる未亡人ローズに扮したキルスティン・ダンストとプレモンスは、実生活でも仲睦まじい夫婦として知られ(2人は2017年のドラマ『FARGO/ファーゴ』シーズン2での共演をきっかけに結婚に至った)、前半で彼らが見せる交流場面は、本作でも数少ない観る者を優しさで和ませるシークエンスとなっている。
役者それぞれの個性や繋がりから、登場人物の陰影を巧みに引き出していくカンピオン監督の慧眼ぶりも見事で、その後に彼らが見せるそれぞれの「対立」(特にカンバーバッチとダンストは撮影の合間でも互いに距離を取り合い、ほとんど個人的な会話を交わすこともなかったという)の磁力をジリジリと高めていく展開に、何度も観ていて息が詰まりそうになる。特に中盤、屋敷で営まれた地元の名士たちとの晩餐会の余興で(しかも階上のどこからか、フィルが嗜むバンジョーの巧みな演奏が響き渡り、場の威圧感がさらに高まる中)決して上手くはないピアノの演奏を強いられるローズの見世物にされた絶望感を、夫への醒めた眼差しによって体現したダンストの闇へ堕ちていく過程は、信頼していた男性に何らかの理由で失望した経験を持つ女性なら、誰もがその苦い記憶を否が応にも反芻せずにはいられないはずだ。
そして恐らく本作を観た多くの人が、似た気配を強く感じさせる過去作として連想するのは、ポール・トーマス・アンダーソン監督による2007年の傑作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』だろう(両作共にレディオヘッドのギタリストとしても知られるジョニー・グリーンウッドが音楽を担当しているのも、その相似性を想起させる大きな所以だ)。20世紀初頭のカリフォルニア州を舞台に、石油採掘に執念を燃やす男の狂気と焦燥を描いた同作で、ダニエル・デイ・ルイス扮する山師の正体を曝け出そうとする若き新興宗教の教祖(演じるポール・ダノの怪演ぶりも凄かった)との「対決」が、最終的には笑ってしまうほど醜く哀れな人間の「業」を強烈に焙り出していた。
本作においても『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を想起させる関係性は、大学の休暇でローズたちの暮らす牧場を訪れた聡明な息子ピーター(演じるコディ・スミット=マクフィーの、華奢でありながらもどこか底知れぬ魔性を感じさせる佇まいが素晴らしい)と、母の再婚を契機に彼の叔父という関係になったウィルの再会によってもたらされる。その経過は本作の後半での大きな見せ場となるため、まずは何も知らない状態で観ていただくのが一番かと思うが、明らかに「男らしさ」とは無縁の生活を送って来たと思しきピーターの肉体と仕草を見て、出逢った当初はあからさまに蔑む姿勢を見せていたウィルが、果たしてどのような心境の変化を経て、彼にカウボーイとしての「教育」を施そうと決意するに至ったのか。そしてその過程で主導権を握るようになるのは、果たして誰なのか。観る者の固定観念を逆手に取るような展開に、誰もが感情を大きく揺さぶられるだろう。
フェミニズムや同性愛、旧き価値観を捨てきれない哀れな男性のアイデンティティといった現代と直結したテーマを内包しつつ、それらを声高に叫ぶことによって人々の快哉を促すといった安直な姿勢を、本作は決して取ろうとはしていない。むしろカンピオン監督は本作での歪な4人の相互依存の関係を、可能な限り無慈悲な視点で見つめることで、彼らの固く閉じた感情の包皮を熟練の外科医によるメス捌きの様な手際で引き剥がし、その内側に潜む生々しい本性の核を抉り出そうとしている。だからこそ本作は凡百な作品にありがちな啓蒙の罠を乗り越えて、観る者の深層心理にまで深く響く。
全編が微細な風の気配に至るまで計算された驚くべき音響設計(本作は当然、劇場での鑑賞がベストなのは言うまでもないが、ご家庭で見る際はなるべく静かな環境下での良質な音響、もしくはヘッドフォン装着での視聴を強く勧めたい)、そしてアメリカ北西部を舞台にしながらニュージーランドでの撮影を敢行した美しい大自然の映像(撮影監督を担当したのは今年オーストラリアの反逆者を描いた異色西部劇『トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング』も手掛けたアリ・ウェグナー。今後、彼女は大きな注目を浴びていくだろう)の効果を経て、カンピオン監督は今こうして終わりゆく「男らしさ」が幅を利かせた時代への、感傷や慈愛の念を一切排した挽歌を綴っている。その驚くべき「世界を曇りなく見る眼」の深さに、観る者はただひれ伏すしかない。
■公開・配信情報
Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
一部劇場にて公開中
Netflixにて独占配信中
監督:ジェーン・カンピオン
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キルステン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィー
KIRSTY GRIFFIN/NETFLIX (c)2021 Cross City Films Limited/Courtesy of Netflix