厳しい現実や作品制作の苦悩をありのまま表現 『ブルーピリオド』が問う“芸術とは何か”
それにしても、“才能”とは一体何なのだろうか。いままさに東京藝術大学を受験中の矢口を描いている、本シリーズが示唆する、“才能”という核心の問題に、ここから触れていきたい。
矢口は、高校の美術教員や美術予備校の指導員など、優れた指導者たちに恵まれ、技術のみならず芸術的な感性までも教育されることになる。ここで多くの人が疑問に思うのは、芸術的才能がそんな受験勉強みたいな方法で育っていくのかという点だろう。実際、矢口は素直に指導者の声に耳を傾け、受験の基本である“傾向と対策”を繰り返すばかりで、才能あふれる“芸術家”のイメージとは程遠い。だが、矢口の描く「受験絵画」が非・芸術的なものだと考えるのは早計だ。そう思うのは、そもそも“芸術”というものに対する誤解が存在している可能性がある。
多くの人は、“芸術的才能”は天賦のものであり、その人の中の“創造性”が様々な発想を魔法のように生み出していると考える。しかし実際には芸術家は、自分が五感で受け取って吸収した既存の文化や体験、知識などを、頭の中で組み合わせたものを発表しているのに過ぎない。重要なのは、“美の真理”とは自分の中にあらかじめ“才能”として存在するのでなく、あくまで苦労しながら“探して見つけ出すもの”だということだ。
美術評論家の高階秀爾氏は、著作のなかで「なぜピカソは偉大なのか」という疑問に対して、きわめて明確な答えを述べている。その一つとして、絵画にとって重大な改革である「キュビズム」を成立させたという功績が挙げられている。
従来の絵画では、人間が目で見たように、基本的に一つの視点からしか対象を描くことができなかった。しかし、物体を幾何学的にとらえ再構成する「キュビズム」の手法によって、一枚の絵画が複数の視点を手に入れることが可能となった。この試みは、現在までの抽象絵画に多大な影響を及ぼすことにもなる。ピカソはさらに、ジョルジュ・ブラックらとともに、壁紙や雑誌の一部など既存のものを絵画に貼り付ける「コラージュ」技法を確立し、「現代美術の創始者」とも呼ばれる、マルセル・デュシャンによる、“既製品”をアートとして発表する、さらなる革命「レディ・メイド」への先駆ともなった。
これはもはや、“感覚”などのようなあやふやなものではない。ニュートンの「万有引力」やアインシュタインの「相対性理論」など、物理学における世紀の発見と同様、これらの考え方は芸術を次の段階に進ませることになったのである。その功績と、後世への多大な影響によって、ピカソは美術の世界においてアインシュタインのような偉大な地位を手にしたのである。
ピカソだけではない。過去から現在までに優れたアーティストたちが、それぞれの活動と数限りない試行錯誤のなかで「美術」の幅を広げ、進化させてきたのである。そう考えると、もはや芸術とは、一人の人物が美術史も技法もとくに学ばず指導も受けずに、その場の思いつきや感性だけで太刀打ちできるような牧歌的なものではないことが理解できるはずだ。
であれば、技術や知識の指導を受けたり、勉強をすることは不可欠なはずである。鋭敏な感覚を持った者が不勉強なまま作品を制作しても、その試みはすでに誰かが作品にしている可能性が高い。あくまで自分の内なる感性だけを頼って美術界に貢献する作品を生み出すことのできる可能性はゼロではないが、それは自分の人生を懸けて宝くじを買うような愚かな行為だといえよう。
いまの美術の到達点を把握し、自分に必要な技術や発想を得る流れを手法として確立することが、芸術家に求められているのだ。ピカソもまた、スペインやフランスの芸術家たちとのつながりのなかで、そのプロセスをたどったはずなのである。つまり、受験に必要な“傾向と対策”は、プロフェッショナルな芸術の世界でも、必要になってくるところがある。もちろん、高校生の矢口はまだまだ未熟であり、プロやアートの最前線の領域を目指すためには、これから数々の壁を乗り越える必要があるだろう。しかし、自分の作品をレベルアップする過程で、最初の壁を乗り越えるプロセスは、すでに踏んだことになる。
藝大を受験するまで2年にも満たない、限られた時間の中で、矢口は絵を描きまくる。しかし、多くの受験生たちは彼よりもキャリアを積んでいる者がほとんどだ。よく、「絵が上手くなるにはとにかく描きまくること」と言われる。その意見は間違いではないが、それが唯一の真実だとするなら、作品の総量が少ない矢口が合格するのはほぼ不可能なはずだ。本作が面白いのは、それでも藝大現役合格を狙えるレベルにまで、矢口が急激にレベルアップするという展開である。