『おかえりモネ』が訴える対話の大切さ  「ゆっくりでいいよ」というメッセージ

『おかえりモネ』が訴える“対話”の大切さ

 「ねえ 知り合った日から2年半(※)過ぎても あなたって手も握らない」(※登米の森林組合で出会ってから汐見湯のコインランドリーで初めてのハグをするまでの期間)

 懐かしの80年代歌謡の歌詞の5倍かよ! というツッコミが起こりそうなほどスローペースな、百音(清原果耶)と菅波(坂口健太郎)の恋模様にハマる視聴者が続出している『おかえりモネ』(NHK総合)。放送を残すところ1カ月と少しとなったところで、ようやく2人が互いの気持ちを確かめ合い、正式な“恋人同士”となるという「ゆっくり」感。これこそがこのドラマの持ち味ではないだろうか。

 ヒロインの百音をはじめとする、東日本大震災で被災した人々の「あれからの日々」を題材にした本作品は、常に「傷ついた人に寄り添うとはどういうことか」を描こうとしてきた。中でも、第16週「若き者たち」と第17週「わたしたちに出来ること」は、そのテーマにおいて重要なターンだったと言えるだろう。

 震災の日、家族や幼なじみを置いて島の外にいて、津波を体験せず、負い目を感じ生きてきた百音。津波で美波(坂井真紀)を亡くしてからというもの、ずっと前に進めない新次(浅野忠信)と亮(永瀬廉)。寺の息子に生まれ、震災で亡くなったたくさんの人々の魂を見送った三生(前田航基)。形は違えど、それぞれに大きな傷を抱え、それに蓋をし、語ることを避けてきた。

 また、震災で被災せずとも苦悩を抱えて生きてきた人もいる。自ら曰く「ド新人の空回り」で、担当したがん患者を正しい治療に導くことができず、ずっと自責の念を抱いてきた菅沼や、東北地方の豪雨で多くの命が奪われた際、気象予報士として警告できなかったと自分を責め続けた朝岡(西島秀俊)らの、自らの責務と無力感の狭間で悩みながら生きる姿があった。

 心の中に澱(おり)を抱えて生きている人たちが誰かに話して、少しずつでも吐き出すことが、立ち直りのきかっけになることがある。このドラマでは、そうした「対話」の大切さを繰り返し描いているようだ。

 震災のことを「話しても地獄、話さなくても地獄なんだよね」と亮は言う。しかしこれが、ずっと心を殺して柔らかな微笑みを湛えて生きてきて彼が、初めて誰かの前で語った偽らざる「裸の気持ち」だった。亮の言葉を受けて三生は、「手なんか繋がなくたっていい」、けれど、「俺らもう、普通に笑おうよ」と言う。それぞれに傷の形が違う、思いも違う。人の心なんて、そう簡単にガラッと変わるものじゃない。だから無理に「心をひとつに」なんてしなくていい。かといって、無理に閉ざさなくてもいい。話すも話さないも、立ち直るも立ち直らないも、自分のペースでいい。自分なりの「普通」を少しずつ、少しずつでいいから、取り戻していけばいい。

 同じ頃、気仙沼では美波の死亡届へのサインをめぐり、また酒に逃げてしまった新次に付き添う耕治(内野聖陽)と亜哉子(鈴木京香)の姿があった。亜哉子は「何か、楽しいこと話そう」と言う。この台詞は三生が亮に投げかけた言葉と対になっている。心が少しほぐれたのか、新次は「俺がこれ(死亡届)にハンコ押したら亮、楽になれんのかな。そしたら美波も喜ぶな」と言った。その顔には、初めて見る安らかな表情が宿っていた。



インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「国内ドラマシーン分析」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる