岡田健史の“熱”は今なお燃え続けている 『青天を衝け』に刻まれた平九郎としての人生
たった1話で、どれだけの“ロス”を味わったのだろう。NHK大河ドラマ『青天を衝け』第25回は、小栗忠順(武田真治)、川路聖謨(平田満)、そして、渋沢平九郎(岡田健史)の凄絶な死が描かれた。生きた証を画面上に焼き付けるかのように死んでいった彼らの熱は、1週間経った今でも視聴者の心の中で燃え続けているのではないか。次回第26回の放送は、9月12日としばらく間が空いてしまうが、ここで、第25回を振り返ってみたい。
まず、興味深いのは、主人公・渋沢篤太夫/栄一(吉沢亮)が完全に視聴者と変わらない立ち位置にいるということだ。親しい人たちの死闘を後日談として聞くしかない、今聞いたところでどうすることもできない歯がゆさ。また、大政奉還以降という幕末を扱う時代劇において最も重要な部分が、主人公がその場にいなかったために「何が起こっているのかよくわからない」ところから始まって、回を重ねるごとに徐々にフォーカスされていき、その全貌が明らかになっていくという手法も斬新だ。
彼がパリにいて、御用状やニュースペーパー越しでしか日本の異変を知ることができなかった第24回と、その時日本で何が起こっていたか、彼の親しい人たちがどう動いていたのかの詳細が明かされる第25回は、時系列的にはほぼ同時期を描いている。だが、第25回時点では、虚ろな表情で移動を続けている「上様」慶喜(草なぎ剛)の真意は推し量ることしかできない。今後、本人の口からそれが明かされることで、ようやく完全な「答え合わせ」となるだろうことも興味深い限りである。
さて、本題の3人の死である。「皆の分まで新しい徳川の夜明けを見届けるまで、くたばるわけにはいかない」と言っていた川路は、その本意でない「夜明け」を目の当たりにし、自ら死を選んだ。
一方、小栗の死は、この時代の流れが、「古き者(幕府)が淘汰され、新しき者(新政府)が時代を切り拓いた」といった単純な構造からなってないということを改めて示唆する。なぜなら彼は、第19回において、徳川家康(北大路欣也)によって、一橋の篤太夫、薩摩の五代才助(ディーン・フジオカ)と並んで「新しい人材」と称されていたからだ。
実際、大政奉還後の重要トピックである「江戸城無血開城」がさらりと流され、勝海舟の登場さえなかった本作において描かれたのは、薩摩藩・岩倉具視(山内圭哉)VS慶喜によるほぼ互角の頭脳戦であった。そんな中、勝敗を大きく分ける白眉として描かれたのは、外交面で暗躍した五代の存在だったように思う。経済の知識の重要性の理解と実践力、そして世界規模で物事を考えることができる商人気質の人物こそが、本作における今後の世を担っていける人である。
小栗もまた、そんな今後の世を担いうる、優秀な人材であったにもかかわらず、死に阻まれた。刑に処せられる際、舌の上に隠し持っていた1本のねじを呈示した小栗は、そこに、成しえなかった新しき世の構想と、彼自身が、新しい世の礎となる1本のねじになるという思いを込めたのだろうか。
そして、平九郎の死。岡田健史が自ら発光しているかのようなエネルギーで体現してみせた名も無き青年の非業の死は、土地にしっかりと根付き、生活を営んできた若者の人生を示していた。彼の死において、最も重要なことは、「武士」として「御旗本渋沢篤太夫が嫡男」としてのプライドを懸けた死に際の華々しい言葉の数々よりも、それまでの行程にある。