犬の視点で記録する“地上50センチのディストピア” 『犬は歌わない』が暴く人間の残酷さ
1950年代にアメリカと旧ソ連のような大国を中心に激化した宇宙開発競争によって、旧ソ連では数十匹の犬が宇宙空間に送られたという。そのなかで最も有名なのは1957年に世界で初めて地球の軌道を周回することに成功し、“宇宙へ飛んだ犬”と呼ばれたライカという一匹の野良犬であり、その英雄的な逸話と対照的な不遇さは、ラッセ・ハルストムの『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』などさまざまな作品で引用されてきた。
オーストリア出身のエルザ・クレムザーと、ドイツ出身のレヴィン・ペーター。冷戦終結間際の80年代半ばに生まれた2人の映画作家が作り出した『犬は歌わない』というドキュメンタリー映画は、当時のアーカイブ映像を重ねながら、ライカの子孫かもしれないモスクワの野良犬たちにフォーカスを当てていく。人間たちが作り上げた不条理の犠牲となった半世紀以上前の犬たちと、現在もモスクワで過酷な生存競争を繰り広げる犬たち。両者が味わう理不尽な暴力が連続性をもった関係として描かれており、カメラを向けられると期待通りの動きを見せる現代の野良犬たちは、あたかも人間たちの作為に抗おうとしているようにも見える。幾度となく目を背けたくなるような瞬間が訪れるが、これはまぎれもなく記録すべき映像といえよう。
路上で寝そべっている一匹の野良犬が、どこかから聞こえる他の犬の鳴き声で起き上がると、人の気配のない街の中を歩き始める。やがて野良犬は二匹、三匹と増えていき、人間の文明社会の象徴である自動車を舐めまわす。終始カメラは、犬たちと同じ目線を保ちつづける。それは数年前にトルコのイスタンブールに暮らす猫たちにフォーカスを当てたジェイダ・トルンの『猫が教えてくれたこと』というドキュメンタリー映画でもとられた手法とよく似ているが、同作にあったような暖かな幸福感は本作には存在しない。ここに映るのは、人間という強者に支配された冷ややかな世界で生きていくことを貪欲に求めつづける、地上50センチのディストピアに他ならない。
観ている間になぜか頭をよぎったのは、1963年に製作されたゲオルギー・ダネリヤの『私はモスクワを歩く』というのどかな青春映画で、その劇中で若者たちがぶらぶらと巡っていたモスクワの街並みと比較すれば、本作で映るそれは当然のように大きな変化を遂げている。それでも思い返してみれば、同作の序盤で主人公が公園を歩いていたシーンで、繋がれた犬が子どもたちの遊ぶボールに噛みついているというくだりがあった。その光景はどことなく、今回の劇中で猫が襲われるシーンと重なる。半世紀以上前の映画に登場した飼い犬もまた、生存本能のなかで生きていたのかもしれない。国の名前や街の風景が変わったところで、生物のありのままの本能には決して抗えないというわけか。