『エヴァ』完結を前に振り返る“1997年” 『Air/まごころを、君に』と『もののけ姫』

 東日本大震災や福島の原発事故、COVID-19騒動などを経て、普通の生活が“特別”になってしまった2020年の日本においては実感できないかもしれないが、1997年当時潜在的に、普通の生活を退屈として、日常を破壊したいという世間の“気分”は確かにあったと思う。そんななか『Air/まごころを、君に』『もののけ姫』は公開された。

 詳しい内容に関しては各作品の本編を観ていただくとして、公開当時は気づかなかったが両作の構造、また終盤の展開は似ている。

 エヴァンゲリオン初号機とシシ神の首というマクガフィンを巡る各陣営の対立が頂点に達したところで、そのマクガフィンが超越的な力を発動させる。神に等しい存在となったエヴァンゲリオン初号機は人類の自我を融合させようとし、首を失ったシシ神は巨大なディダラボッチとなって森とタタラ場の住人の命を吸い取ろうとする。こうした展開は、先述した破局への願望、退屈な日常を壊してくれる強烈な一撃。恐怖の大王を待望する“気分”を象徴していたのではないだろうか。

 庵野秀明監督は『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』の中で『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズのドラマやキャラクターについて、そして社会や時代からの作品への影響について、こう語っている。

「ノンフィクションですよね。自分が今やっているのは。(中略)エヴァは実はドラマというより、ドキュメンタリーに近いですね」

「僕のアンテナが、要するに自分自身には何もないので、無意識に社会を反映できるというのがあるのかもしれない」

 一方の宮崎駿監督も、インタビュー集『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』のなかで、『もののけ姫』制作当時の心境について、こう語っている。

「いや、僕は人間を罰したいという欲求がものすごくあったんですけど、でもそれは自分が神様になりたいんだと思っているんだなと。それはヤバいなあと思ったんです。それから『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)なんかは典型的にそうだと思うんだけど、自分の知ってる人間以外は嫌いだ、いなくてよいという、だから画面に出さないという。そういう要素は自分たちの中にも、すごくあるんですよ。時代がもたらしている、状況がもたらしているそういう気分を野放しにして映画を作ると、これは最低なものになるなと思いましたね」

 時代や状況の影響について庵野秀明監督は「無意識に」と言っているのに対して、宮崎駿監督は自覚的であり、批判さえしているのが興味深い。

 『もののけ姫』が当時の空気を取り込んだうえで、その空気に対するカウンターパンチを込めて、より普遍的なファンタジーへと昇華させたとしたら、『Air/まごころを、君に』はドキュメンタリー映画のようにままならない現実の理不尽さも含めて、物語に表現に空気を直接焼き付けているというところだろうか。実際いま両作を観直してみると、『もののけ姫』が1作のファンタジー映画として楽しめるのに対して、『Air/まごころを、君に』にはいまだ閉塞感が色濃く漂い、公開当時の“あの気分”が自分の中によみがえってくるように感じた。

 折しも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」完結編『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開にあわせて、『Air/まごころを、君に』が23年ぶりに劇場公開される。“あの気分”を知らない若い世代が、同作を観てどのような感想を抱くのか、知りたい。

 もちろん宮崎駿監督が、現在制作中の『君たちはどう生きるか』で、今度はどんな気分へのカウンターパンチを見せてくれるのかも気になるところだ。

■倉田雅弘
フリーのライター兼編集者。web・紙媒体を問わず漫画・アニメ・映画関係の作品紹介や取材記事執筆と編集を中心に、活動している。Twitter(@KURATAMasahiro

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