菊地成孔が『ミセス・ノイズィ』を語る これからのホームドラマにおける時代設定の重要性
スマホを持ってないことで守られている布団叩きおばさん
ーー確かに、現実的に考えると、この映画の最後は、ちょっとしたファンタジーのように思えなくもないです。
菊地:うん、そこがちょっとファンタジックというか、SNSとテレビ報道というものを、笑って泣けるコメディ映画の単なる装置として使っているだけで、その本当の恐ろしさみたいなところには肉薄していかないんです。もっと言うならば、現実に比べて、かなり手ぬるいものとして描かれていますよね。小説家の彼女は、テレビ報道やSNSの反応を受けて、別にノイローゼになったりするわけじゃないですよね。その時点においても彼女は、自分は悪くないと思っているわけで。彼女が本当に改心するのはSNSによってではなく、最後の最後に布団叩きおばさんが見せた行動と告白によってじゃないですか。
ーーそうですね。
菊地:まあ、そこでひとつカタルシスがあって、浄化がもたらされるんだけど、それはもはやSNSとは関係ないというか、彼女が改心さえすれば、簡単に世の中はひっくり返るわけで……でも、それってホントかなっていう。あと、布団叩きおばさんは、スマホを持ってないわけですよね。で、ネットも見ないから、自分が騒ぎの中心になっていることも、まったく知らないと。つまり、スマホを持ってないことによって、彼女のまわりには結界が張られていて、ネットの騒ぎから守られているわけです。でも、小説家の彼女は、そうはいかないですよね。スマホを使っているから。というか、布団叩きおばさんが、スマホを縦横無尽に操って、きゅうりの画像とかをインスタにアップとかしていたら、やっぱり心にノイズが出たと思うし、あのおばさんもまた、小説家の彼女と同じように、要らない世論に振り回されたと思うんですよね。
ーーなるほど。そうかもしれないです。
菊地:だから、見ようによっては、あのおばさんのように、スマホを持たなければ、こんなにもピュアになれるんですよっていう。そういうメッセージが、この映画には入ってなくもないというか、反省すべきは小説家の彼女のほうで、あのおばさんではないと。だって彼女は、パーフェクトピュアだから。
ーーSNSを重要な要素として扱っておきながら、結局SNSを使わない人がピュアなんだっていう結論は、ちょっと納得いかないような気がします。
菊地:そうですよね。SNSによって事態が大きくなっちゃうんだけど、そんなSNSの中にも美談があって、それによって助けられるようなホームドラマが成立したとしたら、それはすごいカッティングエッジな物語だと思いますけど、これだと単に、SNSをやらない人がピュアなんだっていう話に思えなくもないので。そこはちょっと物足りないというか、すごく才気走った監督で、脚本もよく書けているんだけど、現代性っていうものに向ける目が、ちょっと弱いような気がするんですよね。もちろん、自分は三谷幸喜監督のような若年寄りであって、現代性とかトレンドにはいっさい興味がないんだって言うなら、それはそれで構わないと思うんだけど。要するに、同じSNSでも、2005年と2020年では大きく違うわけです。この作品にはもう一点穴熊があって、割と前半に、小説家の夫が、子どもの面倒を妻に押し付ける。その理由が「こんな時期だから、(スタジオミュージシャンの)たまに来る仕事が断れない」というセリフで説明されていて、観客をコロナ禍にリーディングしてしまっている段階で、現在性を強めてしまっています。このセリフと設定を、コロナ禍とは全く関係ないんだ。という所にまで丹念に説明しないと……例えば不景気とか、夫に職能が低く、仕事が慢性的に少ないのだとか、そういう風にしておかないと、自動的に今の話になってしまう。そうなるとさっきまで話していた、SNSの軽い扱いが目立ってしまう。おばさんが騒音嫌がらせに出してくるのがカセットデッキだったりするのもおかしい。一般人がパパラッツィ化するときも、今だったら100%スマホでしょう。まだデジカメがいるのね(笑)、なのに夫はコロナ禍で仕事が少ない。というのは矛盾です。完璧なシナリオなんですけど、ここ、穴熊ですよね。なんか完全犯罪が破られる瞬間みたいな話ですけど(笑)。