『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失

『ヒプマイ』のフラットな画面

 もうひとつは、この連載が注目している、文字通り「画面」に感じるフラットさ=浅さだ。

 アニメ『ヒプマイ』で劇中でキャラクターがラップするシーンでは、いつも前後の物語世界から切れたようなミュージックビデオ風の映像演出が凝らされる。マイクを持ってラップを歌うキャラクターを中心に、グラフィカルな背景とリリックがリズムにあわせて画面に登場し、それらが組み合わさって画面が展開されていく。その画面は、いわばカラフルな書き割り的背景の上にペタッとキャラクターが乗っているような強い平面性を視聴者に感じさせる。

「ヒプノシスマイク -Rhyme Anima-」MV

 しかも、アニメ『ヒプマイ』の場合、こうした画面の平面性は、ラップバトルのシーンの演出に限らない。そもそも『ヒプマイ』世界のキャラクターたちが暮らすイケブクロ・ディヴィジョン、ヨコハマ・ディヴィジョンなどの街の風景自体がカラフルな色彩が施され、ペラペラの書き割り的なイメージに溢れている。また、そこに立つキャラクターたちも(これも昨今のアイドルアニメに典型的な演出だが)画面に向かって正面に並列する平面的な配置が多く、これらが相俟ってアニメ『ヒプマイ』全体の画面のフラットさ=浅さ、及び一種の「明るさ」を全面に押し出しているのだ。

『ヒプマイ』と大林宣彦的画面の共通性

 いささか突飛すぎる連想を承知で書けば、こうしたアニメ『ヒプマイ』の平面的な画面――フラットで書き割り的な風景イメージは、連載第1回で取り上げた大林宣彦の映画の画面を髣髴とさせる要素がある。

 たとえば、アニメ『ヒプマイ』のディヴィジョンの街頭風景は、大林の商業映画第1作『HOUSE ハウス』(1977年)の冒頭、ヒロインのオシャレ(池上季実子)らの女子高校生たちがたたずむ東京駅の駅前広場の舞台の書き割りのように奥行きを欠いた平板な景色とよく似ている。そして、このロケーションとセット撮影、さらにオプティカル合成やアニメーションといった複数のレイヤーがのっぺりと遠近感なく重ねられた大林特有の画面は、彼の晩年の2010年代に立て続けに撮られた「戦争3部作」(2012年〜2020年)でもふたたび顕著に見られたイメージだった。その意味で、今後の議論を先取りしておけば、このアニメ『ヒプマイ』の平面的な「明るい画面」もまた、すでに大林を論じた拙論で注目したように(「「明るい画面」の映画史――『時をかける少女』からポスト日本映画へ」、『ユリイカ』9月臨時増刊号参照)、おそらくは現代日本映画の「明るい画面」の系譜――それは「アニメ的」でもあり「インターフェイス的」でもある――に連なっているように思われる。

「浅い画面」の『ヒプマイ』ファンの「近づいた」受容

 アニメ『ヒプマイ』の徹底して遠近感を欠いたフラットな画面。それは、「深さ」という「距離」を欠いた画面だといいなおすこともできる。

 おそらくここには、映像文化に限らない、現代における文化消費の構造の特徴が顔を覗かせているのではないだろうか。

 たとえばそれは、コンテンツやスターと、それを消費(受容)するファンとのあいだの関係性(距離感覚)に集約することができる。マンガ研究者の岩下朋世は、『ヒプマイ』が作中の対立チーム間のラップバトルと現実とのメディア展開を結びつける「battle CD」という音源をリリースし、それによって「AKB48総選挙」のように、それぞれのディヴィジョン同士の対決が、音源購入による投票という形で彼らを「推す」それぞれのファン同士の対決とリンクしていく構造に着目し、つぎのように述べている。

 いずれにしろ、こうした展開は、「推す」行為によって、ファンがキャラクターの生に直接関わることができるような仕掛けとなっており、今日的なキャラクターの享受のあり方を体現している。『ヒプマイ』のメディア展開は、ファンに、物語、そしてキャラクターの生へ貢献する感覚を与えるものだと言える。そして、そのことはファンのプロジェクトに対する発言力を強めるものでもあるだろう。実際にその発言がどの程度の影響力を持ち得るかはともかく、「公式」の打ち出す方針や姿勢に対して、ファンとして何かを物申したくなる。ファン参加型のメディア展開は、そうした感覚を刺激する」(「キャラクターはどこにいる――『ヒプマイ』そして「解釈違い」」、『キャラがリアルになるとき――2次元、2.5次元、そのさきのキャラクター論』青土社、185頁)

 岩下によれば、『ヒプマイ』の示すメディア展開は、「『推す』行為によって、ファンがキャラクターの生に直接関わることができるような仕掛け」があり、それによって「ファンに、物語、そしてキャラクターの生へ貢献する感覚を与える」ことを可能にしている。つまり、そこではファンと、彼ら/彼女たちが「推す」コンテンツ(物語、キャラクター)の距離は格段に縮まっている。だからこそ、「『公式』の打ち出す方針や姿勢に対して、ファンとして何かを物申したくな」り、また実際に「ファンのプロジェクトに対する発言力を強め」ているのだ。

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