『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失

「距離」を喪失した21世紀の文化消費

 もちろん、こうした傾向は、何も『ヒプマイ』に始まった傾向ではないだろう。これもまた、コロナ禍以前の2010年代に全面化してきた文化現象のひとつだ。2000年代後半のSNSの普及以降、一方で、ぼくたちはかつては遠い存在だったハリウッドスターや各国の首脳に気軽にメンションを送れるようになり、また他方でパッケージ販売に代わってアイドルの握手会や舞台を典型とするライブエンターテインメントが盛り上がった。それらはひとことでいいかえれば、ぼくたちの文化消費の感覚からあらゆる「距離」(深さ、高さ、広さ)を失わせる動きだった。YouTuberも声優も、地下アイドルもオンラインサロンの主宰者も、伸ばせば手が届くところに近づけることができる。それらはいまや、かつてと比較すると、まさにフラットに「密着」可能な存在になっているのだ。

 それゆえに、ファンは、「物語、そしてキャラクターの生へ貢献」できもすれば、簡単に「何かを物申」すこともできる。しかもこうしたメディア環境の変化による受容の変化は、映画研究者の北村匡平が「原節子の時代から若尾文子の時代へ」という魅惑的なフレーズで定式化したように(『スター女優の文化社会学――戦後日本が欲望した聖女と魔女』作品社)、映画館からテレビへと移行した戦後昭和期にもすでに見られたものでもあるだろう。

「推し」「推す」に見る接触可能性と「遠さ」の消失

 ぼくはとりたててスター研究やファンコミュニティ研究を専門としているわけではないけれども、たとえば、そもそも昨今用いられる「推し」(「推す」)という言葉にも、そうした性質が顕著に表れているように感じるときがある。

 すでによく知られるように、「推し」とは自分が応援したい対象を指す言葉である。もともとはAKBなどのアイドルグループのお気に入りメンバーを「推しメンバー」(推しメン)と呼んだことに由来する。また、そうした「推し」を応援することが「推す」という行為である。

 ぼくがこの「推し」や「推す」という言葉の語感から感じるのは、その親近性、対象との距離の近さの感覚である。

 そして、その近さは、第一に、横のつながり=ファン同士の近さ、そして第二に、縦のつながり=「推す」対象との近さの両方を含んでいる。まず、いうまでもないことだが、「推す」とは本来、「推薦する」=同じ対象を愛好するファン同士のあいだのコミュニケーションの意味を含意しているだろう。実際、最近でも「推し」について考察する哲学研究者の筒井晴香は、SNSの普及に伴って、現代の女性オタク間の「社交」の重要性に注目している(「孤独にあること、痛くあること――「推す」という生き様」、『ユリイカ』9月号所収)。

 さらに、「推し」という言葉の語感は「押し」にも転化し、どこか自分が憧れる対象への「接触可能性」(押せること)のニュアンスを惹起させている。憧れている存在ではあるけれども、同時に自分自身もさまざまな手段を通じて彼/彼女の活動に何らかの影響を与えることができ(まさに「物語、そしてキャラクターの生へ貢献」でき)、推す=押す気になれば推せる=押せるという確かな信憑を感じられる――そういう存在に、ファンが消費する対象が変容しつつあるように思われるのだ。これは直感的な判断でしかないが、たとえば「宇多田ヒカル推し」というとどこか違和感が残るが、「米津玄師推し」というと自然に聞こえる。

 したがって、2000年代あたりくらいまでに流行っていた「萌え」という言葉に代わって(?)、偏愛する対象に対する賞賛の表現として、現在、若者たちのあいだでしばしば「尊い」「尊み」という表現が使われるのを耳にすると、ぼくはどこかとてもシニカルな気持ちになる。それは、いいかえれば、ぼくたちの文化消費の条件から、もはや徹底してかつてのような「尊さ」の感覚が失われているからこそ、逆説的にそれを回復するために用いられているのではないか?

 そして、ここでふたたび話を元に戻して、結論めいたことをいえば、アニメ『ヒプマイ』の画面が示すフラットな平面性とは、そうした「尊さ」(「深さ」)が逆説的に仮構される、「推し」のリアリティに満ちた現代のポップカルチャーの内実を視覚的に体現するもののようにも見えるのだ。

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