ロドリゴ・ソロゴイェン監督が突きつける“喪失” 『おもかげ』が描く悲しみからの再生
エレナは依然として、死の世界から電話で助けを呼ぶイバンとの通信の中で生きている。今立っているこの砂浜は、そんなイバンとの通信に最も近いスポットなのであり、この波の音も、このカモメの鳴き声も、この美しい夕刻の斜光も、この緩やかな風も、かつて愛する息子がその悲劇的な死の間際に接したであろう事象のひとつひとつである。彼女はイバンが電話の向こう側で接したはずのあらゆる事象を追体験し続ける。それこそ自分の生のあり方だとさえ考えている。死の世界と生の世界の往還者。そんな彼女に対して地元のフランス人たちが気味悪がって陰口を叩くのも無理はない。
しかしジャン少年は、会いたい人と会う、行きたいところへ行く、見たい人を見る、触りたい人に触れる、という単純きわまりない行動様式を、無意識のうちにエレナに目覚めさせる。死の世界/生の世界の垂直的往還ではなく、単なるA地点/B地点の水平的移行を。
この『おもかげ』という映画は、バスクという地域が舞台となっている。バスクはピレネー山脈をはさんでフランス領とスペイン領の双方にまたがり、頻繁な越境と共に生きられている地域である。バスク民族はフランス人ともスペイン人とも異なる独自の文化、言語を持っている。本作においてはこの2つの領土の水平的往還こそが重要である。恋人のヨセバの自宅はスペイン側バスクにある。エレナが住むのはフランス側だ。単に生活上の理由から水平的往還がなされる。
本作の監督ロドリゴ・ソロゴイェンはスペインの首都マドリード出身ではあるけれども、この「ソロゴイェン(Sorogoyen)」という苗字はあきらかにバスク系のそれであり、今作の往還性はまさにロドリゴ・ソロゴイェンの出自のなせる業であると思われる。
スペインの首都マドリードから引っ越してきた女性エレナと、フランスの首都パリからバカンスでやってきた少年ジャンのふたりは、不吉な記憶の刻みつけられたこのバスクの海岸で逢瀬をかさね、急速に記憶の更新シャッフルを促され、そしてまた別の道を、もはやどこでもいい道を、どれを選んでもいい道を進んでいく。悲しみは消えない。喪失するは我にあり。しかしイバンはそこにいる。エレナがどの町に住もうが、不幸になろうが幸福になろうが、亡き6歳少年は常に彼女と共にあり、彼女を見つめている。そしてママのこれからの生がどんなものであれ、僕を裏切ることにはならないんだよと、常に彼女の耳元で囁いている。だから彼女はもう、死の世界/生の世界の垂直的往還ではなく、単なるA地点/B地点の水平的移行へと、足の向け方を変えるべき時が来たということを知らねばならない。そしてその時、砂浜を歩く彼女を、がらんとした自室に佇む彼女をスクリーン上に眺める私たち観客の視線は、6歳の少年の霊がむける視線そのものになっているのである。
■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
■公開情報
『おもかげ』
10月23日(金)、シネスイッチ銀座、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国ロードショー
監督・脚本:ロドリゴ・ソロゴイェン
共同脚本:イサベル・ペーニャ
撮影:アレックス・デ・パブロ
製作:マリア・デル・プイ・アルバラド
出演:マルタ・ニエト、ジュール・ポリエ、アレックス・ブレンデミュール、アンヌ・コンシニ、フレデリック・ピエロ
配給:ハピネット
協賛:スペイン大使館
後援:インスティトゥト・セルバンテス東京
原題:Madre/2019年/スペイン、フランス/カラー/シネマスコープ/129分/5.1ch/スペイン語、フランス語/字幕翻訳:柏野文映、手塚雅美
(c)Manolo Pavón
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