「アニメは実写に、実写はアニメになる」第1回
実写とアニメの境を見直す杉本穂高の連載開始 第1回は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評
はじめに
連載を始める前に、この連載意図を記しておきたい。前置きとしてはやや長いかもしれないが、お付き合いただけると幸いだ。そんなのどうでもいいので、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』について読みたいという方は飛ばしてしまっても構わない(3ページ目から本論です)。ただ、この前置きを読んでおくと、本論の理解は深まるはずだ。(本稿には、『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のネタバレが含まれます)
現代における「アニメーションならでは」という言葉のいびつさ
アニメーション映画に関する文章で、「アニメーションならではの」という言い方を見かける機会は数多い。
アニメーションに対置される映画のジャンルは「実写」である。しかし、アニメーションならではの魅力は常々言われるのに、「実写ならではの魅力」が語られることはほとんどないのはなぜだろうか。
それは、「アニメーションならでは」という言葉を使う時、多くの人が「映画は基本的に実写である」ことを前提にしているからだろう。
これを例として持ち出すのは不適切かもしれないがあえて書いてみる。女性監督の作品に今さら「女性ならでは」の感性を見出していたら差別的だ。それは映画監督は男性であるという前提に立った物言いだからだ。女性監督も男性監督と同様、全て固有の作家のセンスが語られねばならない。アニメーション作品も同様ではないか。
そもそも、現代映画において、何が実写で何がアニメーションであるのか、明白に切り分けることが可能だろうか。デジタル化によって実写映画も、自由に現前しないものを描くことができるようになり、アニメーションもデジタル化によって実写映画と遜色ない奥行きとカメラワーク、レンズ効果を獲得し、実在感を強めている。モーションキャプチャは、細かい表情筋の動きまで再現を可能にしている。
今井隆介氏は、実写とアニメーションを以下のように区別する。
「実写映画とアニメーションはともに映像でありながら全く対称的な関係にあり、それぞれ〈かつてあった〉運動の視覚的再現と〈かつてなかった〉運動の創造とに役割を分担し、車の両輪のようにして映像メディア史を牽引してきた」(映像テクストからみるカートゥーン・アニメーションの誕生ーー映像装置における「再現」から「創造」へのメディア・シフト)
しかし、この両者はデジタル化によって、対称的な車輪の両輪から、急速に近似的なものへと変化してきているのではないだろうか。
アニメーションが実写を飲み込もうとしているのか、実写がアニメーションの表現力を獲得しその個性を奪っているのか、そのどちらなのかはわからない。あるいはその両方が同時に進行しているのかもしれない。
いずれにしても、実写とアニメーションの近接の時代に「アニメーションならでは」の魅力を語ることがまだできるのだろうか。その魅力の一部は確実に実写に溶け出しているし、アニメーションもまた、実写に迫る写実性と再現性を獲得している。
映画の前提はそんな風にドラスティックに変化している。しかし、映画をめぐる言説は未だに「実写/アニメーション」の二分法的思考が前提となっているのではないか。