「アニメは実写に、実写はアニメになる」第1回
実写とアニメの境を見直す杉本穂高の連載開始 第1回は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評
アニメのメロドラマ的想像力『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』は美しい映画だ。「美しい」という言葉からあふれ出さんとするほどに美しくあろうとしている。
登場人物が美しい、背景が美しい、小道具も衣装も、服や髪を揺らす風も、光も、画面に映るすべてが美しくあろうとしている。なにより、タイトルが美しい。
その過剰な美しさは、もはや現実にはない領域へと向かっている。絵空事だと言いたいのではない。リアリズムの原則から自由であるのだ。
この過剰さは、黄金時代のハリウッドが極めた「メロドラマ」のスタイルに基づいていると筆者には思える。戦争が引き裂く男女、届かない手紙、暗喩的に示される抑圧、登場人物の感情を高らかに代弁する音楽、舞台、照明、構図、そして観客が流す涙などなど。本作のあらゆる美学がメロドラマ的だ。
メロドラマとは本来、何か。そして、メロドラマ的美学が本作をいかに傑作たらしめるのかを解説してみることにする。
メロドラマとは「チープ」ではない
メロドラマは誤解されやすいジャンルだ。「チープなお涙ちょうだいもの」というイメージを持たれることが多く、いまだに作品を貶める蔑称として用いられることもある。しかし、それは間違いだ。
メロドラマとは、人間の真の感情に迫るための演劇的、映画的装置であり、観客をある感情の高みへと導き解放するものだと筆者は考えている。
元々、メロドラマの「メロ」とはメロディ、つまり音楽を指している。映画史家の四方田犬彦氏は、メロドラマの起源は17世紀のイタリアであると紹介している。(※1)
それがフランス革命の前後から、悲劇に代わり、ブルジョワジーの道徳観を表現する形式として定着していったそうだ。フランス革命後、自由・平等・博愛を理想とする社会に邁進するフランスで、王権なきあと、平等の実現についての希望をうたったものとしてメロドラマは流行したと、メロドラマの価値を最初に見出した名著『メロドラマ的想像力』にてピーター・ブルックスは語っている。平等にとって妨げとなる抑圧的なもの、身分や社会的秩序、あるいはジェンダー差別などに翻弄される主人公を通して、自由と平等の希求が語られた。(※2)
メロドラマは、そのスタイルゆえに安っぽいものだと誤解を受けやすい。メロドラマは基本的に、役者は感情を大げさに表現し、善玉と悪玉がわかりやすく割り振られ、画面はあらゆる方法で登場人物たちの感情を表現しようと試みる。時にはリアリズムを無視した展開を見せることもあり、とにかく、観客に強い情動を呼び起こすように作られる。
映画評論家の加藤幹郎氏は、映画におけるメロドラマは「過剰なまでに画面が饒舌」であると語る。
「メロドラマにおいては、いつも画面が、その色彩や形態、そしてこれは次に見ることですが、主人公が実際に立っている場所の背景、小道具などのセッティングが、高まる音楽と相まって、いつも何事かを観客にたいして、実に饒舌に―ときに声高に、ときに囁きかけるように語りかけるということです」(※3)
続けて、加藤幹郎氏は、メロドラマの過剰な饒舌さが弱者の声を代弁するものとして機能してきたと言う。
「メロドラマには負のメロドラマと正のメロドラマがあります。負のメロドラマとは弱者の吐く(本来なら他人の耳に届くはずのない)弱音です(「弱音」とは、ここで「よわね」であると同時に「じゃくおん」であることに気をつけてください、つまり弱者の吐く弱音には社会的ミュート[弱音器]がつけられていて、弱い音しか出せないのです)。正のメロドラマとは弱者の見る幸福な夢です。前者において弱者は外圧に翻弄されるまま死んでしまいます。後者においては弱者は嘘のようなハッピー・エンディングをむかえます」(※4)
メロドラマとは、そんな抑圧された人々の小さな声を拡大する装置だからこそ過剰である必要があり、それゆえに人間の実存を掬い取ることができるのだ。メロドラマに大きな影響を受けた映画監督トッド・ヘインズの言葉が示唆的だ。
「1950年代のメロドラマの外観とスタイルは、決してリアリスティックでないけれども、そこには映画の感情的な真実についてのほとんど不思議なほど的確な何かがある。ハイパーリアルなんだ」(※5)