実写とアニメの境を見直す杉本穂高の連載開始 第1回は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評

人は囚われ、手紙は舞う

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が、いかにして抑圧された人々の感情を画面に表出させているかを見ていこう。

 ファーストシーン。薄暗い室内から窓の外を見るデイジー・マグノリアの姿を、カメラが室内から捉える。窓の外には、室内と対照的に豊かな緑と晴れやかな青空が広がっている。広い外の世界に出ることができないでいるかのようなデイジー、そして両親との不和をほのめかす会話が続く。

 祖母の古い手紙を見つけたデイジーは、ガラスに覆われたテラスでそれを読み上げる。デイジーの祖母、アン・マグノリアの回想が手紙に合わせて挿入されていく。この回想シーンは全て室外の明るい場所で展開され、室内にいるデイジーと対照をなす。その手紙を突如吹く風がどこかで運んでいく。手紙の行方を追うデイジーをカメラは、狭いガラスのフレームに閉じ込められているように映す。

 メロドラマの巨匠、ダグラス・サークは、画面上に窓や鏡などの「フレーム内フレーム」で、抑圧された女性を暗喩した。本作の冒頭でも、デイジーをガラスと窓を使って抑圧されている様を暗喩している。対照的なのは手紙だ。風に舞う手紙は小さく空いた窓の隙間から、抑圧をかわすかのように自由に飛び立つ。

 この映画において、人は不自由だ。ヴァイオレットもギルベルトも、ディートフリートも何かに囚われている。

 主人公のヴァイオレットは、2つの想いに囚われている。1つは帰ることのないギルベルトへの想い。もう一つは、自動手記人形(ドール)として、人々の想いに答えねばならないという、職業人としての責務だ。彼女は、祭りの日にさえ夜遅くまで仕事をしている。ドールの仕事は、かつて、戦争しかしらなかったヴァイオレットを、戦場の悪夢から解放したと言える。多くの人の心を救ったことを彼女は誇りに思っているだろう、しかし、責務への没頭がある種の抑圧にもつながっていることも確かだ。

 ヴァイオレットは、その抑圧を顔にも言葉にも出すことはない。放っておけばいつまでも仕事を止めなさそうな彼女は、義手の調子が悪くなってはじめて作業の手を止める。一息の間をおいて帰らぬギルベルトへの想いを綴りだす彼女をカメラが窓外から捉える時、窓のフレームがまるで十字架のように彼女の顔を覆っている。まるではりつけられているかのように。

メロドラマはなぜ泣けるのか

 イギリスの映画研究者スティーヴ・ニールは論文「メロドラマと涙」で、メロドラマが泣ける謎を解き明かす。ニールは、「メロドラマの物語的論理の鍵は、リアリズムや自然主義ではなく、むしろ、観客と登場人物の間に知識と視点の不一致をつくり出す」ことにあるという。(※6)

 観客がすでに知っていることを、登場人物が遅れて見出すことによってペーソスが生まれ、観客は涙する。その気づきが遅かったりタイミングが悪すぎた場合、物語はハッピーエンドとならず、ギリギリ間に合えばその逆となる。「遭遇が遅すぎるにせよ、なんとか間に合うにせよ、そこに遅延と、間に合わないかもしれないという可能性があれば、涙はこみ上げてくるのだ」(※7)

 そして、登場人物が気づくまでの間、観客はいかなる介入もできない。その無力さから涙が生じるとニールは結論づけている。

 これは、本作のTV版第10話の構成を考えるとわかりやすい。ヴァイオレットは、余命幾ばくも無いクラーラの娘への50年分の手紙を代筆する。これから50年間、娘のアンの元に手紙が届くことをヴァイオレットは知っており、アンはそのことを知らない。ヴァイオレットは、アンのこれからを想い、物語の中で初めて他者を想い泣きじゃくる。この10話のヴァイオレットとアンの関係の構図は、そのまま本作の観客とヴァイオレットと同じ構図である。

 本作において、登場人物と観客の知識の最大の不一致は、観客はヴァイオレットよりも先にギルベルトが生きていると知らされることである。観客はいつヴァイオレットがそのことに気づくのか、そして、それがどんなタイミングでやってくるのかに心を乱される。

 なぜタイミングを気にするのか。それは、本作のもう一つの大きなストーリーラインである、病魔に蝕まれる少年ユリスの最後の手紙の仕事が残っているからだ。仕事と愛の相克とも言える、ある意味ベタな展開であるが、石立太一監督と京都アニメーションの演出力と吉田玲子の構成力は、とことん過剰に、饒舌に、最大級の劇的さでもってこの衝突を描いている。

 ユリスの死の知らせが、遠く離れた島にいるヴァイオレットにもたらされた時、観客はすでに彼女が絶対に間に合わないことを知っている。島に向かうまでに汽車と船を乗り継ぎ、外はひどい嵐である。急いで戻ろうとするヴァイオレットはすでに遅すぎるし遠すぎる。

 しかし、ここでその距離を、新しいテクノロジーである電話機が一気に詰めるという奇跡を起こす。負のメロドラマ的運命のいたずらを覆すこの「いまいましい機械」の活躍に立ち会ったのは、その機械を一番いまいましく思っているアイリスだった。

 タイミングということで言えば、電話機が普及し、ドールの仕事が脅かされているという「いまいましい」時期だからこそ、ユリスは親友に想いを伝えることができたと言える。ヴァイオレットは間に合わなかったけれど、電話機の普及は間に合ったのだ。

 この一連のシークエンスは、観客が知っている情報と登場人物が知っている情報の整理と、それに気づかせるタイミングも、盛り上げる演出力も、時代設定も、メロドラマとしてこの上ない次元に達している。吉田玲子脚本の類まれなる構成力と京都アニメーションの画面構成力が非常に高次元でマッチしていることを証明するシークエンスと言えるだろう。



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