実写とアニメの境を見直す杉本穂高の連載開始 第1回は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評

涙は明日への希望なり

 1950年代、メロドラマの巨匠ダグラス・サークはアメリカンドリームの中で抑圧される女性たちを描いた。メロドラマはミュートされた弱者の本音を代弁するための物語だと先に書いた。本作において抑圧された弱者はヴァイオレットのような女性だけではない。

 強権的な兄の元で様々なことに耐えていたギルベルト。ヴァイオレットを戦場で道具として扱うしか選択肢のなかった自分を呪って、彼は自責の念という牢獄の中にいる。

 ホッジンズがギルベルトを訪ねる時、彼の部屋はあまりにも暗い。その暗い部屋でギルベルトは決してホッジンズの方を向かない。ホッジンズが開けたドアから外の光が見えるが、部屋から出ることはない。部屋から出る瞬間は描かれず、いつの間にか消えて、次に登場する時はやはり自室の部屋の中である。彼もまた何かに囚われていることを暗喩する。

 本作のカメラについて少し説明したい。本作のフレームは終始安定的でオーソドックスな構図を作っている。そのカメラが唯一、トリッキーな瞬間を見せるのが、ホッジンズがギルベルトの声をドア越しに聞いた時だ。この時だけ、カメラは真横、それから斜めの構図を採用している。舞台も光も小道具も構成も饒舌だが、カメラもまた饒舌に登場人物たちの感情を物語る。

 島に嵐が訪れ大雨が降ってくる。雨は映画において涙の代弁であることは一般的にもよく理解されているだろう。ヴァイオレットに会おうとしないギルベルトに対して「大ばかやろう!」と叫ぶホッジンズに合わせて、クローズアップで動くカメラの後、大雨の中、道でふさぎ込むヴァイオレットのカットがある。さめざめと大泣きする天気の中、水平線の向こうに雲の切れ目が見える。観客は、この時やはりこの後の展開をかすかに期待することになる。

 ギルベルトのいるエカルテ島の建物はくすんだ色で色彩に乏しい。そんな島で唯一鮮やかなのはぶどうだ。ギルベルトが作った、丘上にぶどうを運ぶリフトに乗って、豊かに実ったぶどうが運ばれていく。代わりに降りてくるのはヴァイオレットがドールとなって身に着けた、言葉の果実とも言うべき感謝の言葉をつづった手紙である。

 手紙を読んで走り出すギルベルトを日没の光が照らす。作中、最も激情あふれるシーンに、京都アニメーションは日没であるマジックアワーの時間を選んだ。一日で最も美しい映像の撮れる時間である。

 メロドラマで泣き顔を要請されるのは、主に女性だ。しかし、最後に涙を見せるのはギルベルトだ。ヴァイオレットに「愛してる」を伝えることができたギルベルトは「私も泣きたいんだ」と言う。男の涙は、男らしさからの解放である。軍人一家(典型的な男性性の象徴)の家を継がなくてはならない運命だったギルベルトがその運命から降りることができ、愛する人の前で涙を流すことができたのだ。

 男は涙を見せるな、という古い価値観がある。かつてのフィルムスタディーズには、メロドラマを女性映画と括る考えもあった。しかし、メロドラマと女性映画を同一視することは、リアリズムと男性性を同一視した結果としての「遡及的な分類」ではないかと映画研究者のクリスティン・グレッドヒルは指摘する。そして、メロドラマが感情を扱うジャンルだということは、「感情という領域がいかに歴史的に女性に割り当てられてきた」かということであり、逆にリアリズムが男性性を前提とすることは、「男性の自制心、すなわち公共の場で男性が泣くことへの文化的な禁忌」を作っているのではないかと彼女は言う。(※8)

 黄金時代のハリウッドの男性主人公の何人が涙を見せただろうか。いまでもハリウッドの男性主人公はあまり泣かない。もしかしたら、女性主人公も泣く機会は減ったかもしれない。社会を見渡してみても、今は涙よりも怒りの時代なのかもしれない。

 泣くことはもはや時代遅れなのだろうか。電話が普及して手紙が時代遅れになったように。

 しかし、私たちは、急いで古いものを捨てる必要はないはずだ。デイジーの祖母が古い手紙を大事にしていたように。メロドラマは「廃れてしまったものさえも受け入れることができる」(※9)。古いものを大事にする自由に対して、メロドラマは寛容なのだ。

 泣きたいと本音をついに語ることのできたギルベルトと、あふれすぎた想いで言葉を失うヴァイオレットを淡い月の光がやさしく照らす。涙を浮かべる二人は、泣くことでようやく囚われていたものから自由になったのだ。

 メロドラマを観て観客が涙するのは、登場人物に対して何もできない観客の無力感ゆえという意見を先に紹介したが、映画研究者リンダ・ウィリアムズがこれに反論したことをジョン・マーサーとマーティン・シングラーが紹介している。

 「ウィリアムズが主張したのは、メロドラマにおいては、涙が未来の力の源泉であるかもしれないということだった。というのも、その涙は欲望が満たされるという希望を承認するからである。涙はほとんど未来への投資であり、過ぎ去ったものや元に戻らないものに対する単なる思慕ではない」(※10)

 ダグラス・サークからメロドラマ的感性を受け継いだ、西ドイツの名監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーはインタビューでこう語っている。「ぼくの考えでは、映画が美しく、わざとらしく、演出されきって、仕上げられていればいるほど、映画は自由で解放されるんです」(※11)

 その意味で、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』ほど自由な映画はあるまい。過剰なほどに美しく激情を描いた本作が流させる涙は「自由な明日を生きる希望」である。

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』本編冒頭シーン10分特別公開

引用資料

※1『映画と表象不可能性』、P208、四方田犬彦、産業図書
※2『メロドラマ的想像力』、P37、ピーター・ブルックス、産業図書
※3『映画のメロドラマ的想像力』、P12、加藤幹郎、フィルムアート社
※4:映画学と映画批評、その歴史的展望――加藤幹郎インタヴュー
※5『メロドラマ映画を学ぶ』、P160、ジョン・マーサー&マーティンシングラー、フィルムアート社
※6『メロドラマ映画を学ぶ』、P171
※7『メロドラマ映画を学ぶ』、P171
※8『メロドラマ映画を学ぶ』、P182
※9『メロドラマ映画を学ぶ』、P181
※10『メロドラマ映画を学ぶ』、P193
※11『ファスビンダー (エートル叢書)』、P9、渋谷 哲也 (編集), 平沢 剛(編集)、現代思潮新社

そのほか参考文献、リンク

『「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー』、岩本 憲児編集、フィルムアート社
『サーク・オン・サーク』、ダグラス・サーク、INFASパブリケーションズ
『映画と身体/性(日本映画史叢書 6)』、斉藤綾子、森話社
『imago』 1992年11月号、「映画の心理学」、青土社
『メロドラマ・女性・イデオロギー』(https://www.manabi.pref.aichi.jp/contents/10000276/0/index.html
『メロドラマ的想像力とメロドラマ研究会の活動―日本近現代文学とのかかわりから』、横濱雄二(甲南女子大学准教授)、日本映画学会会報第58号(2019年11月22日)(http://jscs.h.kyoto-u.ac.jp/kaihou-58.pdf
CineMagaziNet! no.19 『シネマガジネット!』読本(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN19/reader-2015.html

■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。

■公開情報
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
全国公開中
出演:石川由依、浪川大輔
原作:『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』暁佳奈(KAエスマ文庫/京都アニメーション)
監督:石立太一
脚本:吉田玲子
キャラクターデザイン・総作画監督:高瀬亜貴子
世界観設定:鈴木貴昭
美術監督:渡邊美希子
3D美術:鵜ノ口穣二
色彩設計:米田侑加
小物設定:高橋博行
撮影監督:船本孝平
3D監督:山本倫
音響監督:鶴岡陽太
音楽:Evan Call
アニメーション制作:京都アニメーション
製作:ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会
配給:松竹
(c)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会
公式サイト:http://violet-evergarden.jp
公式Twitter:@Violet_Letter
公式Instgram:@violetevergarden_movie

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