アンナ・カリーナはなぜ映画に愛されたのか? ゴダールら作家との蜜月から、その演技を振り返る
「女は女であることを証明しながら、映画は映画であることを証明してみせる」(ジャン=リュック・ゴダール)
『女は女である』(ジャン=リュック・ゴダール/1961年)の制作に挑む若きゴダールの野心は、「アンナ・カリーナはアンナ・カリーナであることを証明する」ことでもあった。当初アンナ・カリーナを主演に添えることをまったく考えていなかったゴダールは、『今夜じゃなきゃダメ』(ミシェル・ドヴィル/1961年)でアンナが披露する存在感に強烈な嫉妬を覚え、ほとんど復讐心であるかのように、「我が最高のアンナ・カリーナ」を撮り上げてしまう。
室内劇の傑作といえる『今夜じゃなきゃダメ』以降、60年代のアンナは憧れの『スタア誕生』(1954年)の監督であるジョージ・キューカーと組むことになる『アレキサンドリア物語』(1969年。共演はアヌーク・エーメ!)に至るまで、数々の魅惑的なダンスをスクリーンに披露している。デニス・ベリーの撮ったドキュメンタリー『アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい』(2017年/国内では2020年)の中でも本作のダンスシーンの抜粋が収められているが、アンナのダンスが証明する身体のしなやかさは、ゴダールが『小さな兵隊』(1960年)でまだ発見できていなかった側面であり、何よりゴダールがアンナをフェティッシュに撮ったように、ミシェル・ドヴィルもアンナをフェティッシュに撮ってしまったことこそが、強烈な嫉妬をゴダールに呼び起こしてしまったことは想像に難くない。なにしろゴダールとアンナが結婚したのは1961年3月、「神の前で僕と結婚してくれ」と新婚ほやほやの時期である(結婚式の写真はアニエス・ヴァルダによって撮影されている。素敵なウェディングドレスはアンナ自身によるデザイン)。翌年、ゴダールに「どうしてこんなくだらない映画に出るんだ」と出演することを反対された『シェヘラザード』(ピエール・ガスパール=ユイ監督/1962年)でも、アンナの素晴らしいダンスは披露される。
『シェヘラザード』は、馬に跨るアンナの美しさを堪能できる良作であることでも重要だ。60年~70年代のアンナは美しい乗馬姿を幾度か披露している。ゴダール作品以外の60年代のアンナの出演作を振り返っていて思うのは、映画作家の誰もがアンナに恋をしてしまうという台風のようなアンナ・カリーナ現象、アンナ・カリーナ旋風が生じているということである。ミシェル・ピコリが恐ろしいほどナチュラルに危険人物を演じている傑作『スタンダールの恋愛論』(ジャン・オーレル監督/1965年)の中で、とても興味深いショットがある。車内で恋人とキスをするアンナをバックミラーで捉えるショットで、運転席の男がバックミラーの小さなフレームに窮屈さを覚えるのと同じように、画面を見つめる者もその小さなフレームに窮屈さを感じる。すると、カメラはバックミラーに急激にズームアップしていく。これは、もっと近づきたい!という視線の欲望が、劇中と観客の間で合致してしまう極めて映画的な瞬間といえよう。カメラアイがアンナに引き寄せられてしまうというエロティックともいえる現象。誰もがアンナに恋をする。
『アンナ』(ピエール・コラルニック監督/1967年)という名前を冠した作品が制作された背景には、こういった現象があるのかもしれない。アンナをフェティッシュに撮ったのは何もゴダールだけではないのだ。そして60年代のアンナの出演作には、ゴダール作品の影に埋もれてしまった作品が溢れている。その意味でアンナは、決定的に映画に愛された女優である。それでもゴダールとの作品群が圧倒的な輝きを放つことには変わらない。では、ゴダールはアンナとの短編を含め計7作に及ぶ作品群の中で、アンナの何を神話として証明したのか? ゴダールの言葉を再び引用しよう。
「アンナ・カリーナは北欧的な女優で、事実、体全体をつかって、サイレント映画の俳優たちに似た演技をします。人物の心理を追うような演技は少しもしないのです」(ジャン=リュック・ゴダール)